才能は音楽を特段美しくしない、と彼女は言った。
彼女にとって、音楽はそれだけで美しい。
そう感じられることが、僕からすれば既に、才能だ。
晴れた春の休日、新宿の街を歩く。大きな目的はなく、時間の許す限り、道行く人を眺める。目につく店に入っては、新商品やセールのポップが貼られた商品を手にとって、生活に役立ちそうなものを買う。
波のようにうねる雑踏に揉まれて、時折肩をぶつける。
すみません、と反射的に口が動く。
同じ言葉を返してくる人もいる。黙って去る人もいる。
今日は前者だった。文句を言われなくてよかった、と内心安堵する程度には長く、都会で生きている。お世辞にも背丈には恵まれておらず、幼く見られる顔立ちをしているもんだから、下手な相手だと罵声が唾とともにとんでくるのだ。
昼飯を食べた店から出て、イヤホンを耳にはめる。歩きながらスマホを操作して、音楽アプリを立ち上げる。アーティスト検索で「た」まで画面をスクロール。ここまで全部、流れの作業だ。何も考えなくても、意識しなくても僕はここまでたどり着く。呼吸を吸ったら吐く、レベルで染み付いている。自分で自分に呆れ、笑ってしまうほど。
少し肌寒い春の風も、物足りない太陽光も、雑踏の騒々しさもすべてが遠くなっていく。白く泡を立てながら、澄んで、透明になっていく。
五感が、その音を待ちわびて感覚を鈍らせる。
見えるものも、吹き込む風も、ぶつかる肩も、食べたばかりのナポリタンも、等しく価値が摩耗する。
心まで全部こんな風に、単純で現金ならいいのに。
一瞬恨み言めいた思考が脳裏を過って、自分の愚かさを嘆きそうになる。吐き気がした。
途中だったアルバムの続きを再生する。
流れる音が鼓膜から喉から、心臓を揺さぶる。
空っぽのグラスに水を注いでいくように、耳から頭から全身へ、色づいていく。なにかが満たされていく。波紋が広がって、飢えが消えていって、洪水のように暴力的な劣等感と、泣きたくなるほど感傷的な畏敬が自分の虚飾を洗い流す。
残るのは音楽に対する、美しい、という在り来たりな言葉だけ。
身体が破裂しそうなほどに膨れた感情も、僕の力では音楽に足らない。僕の才では。
僕の世界に、生まれる音楽は無い。
ただ、注がれる音を模して、なぞって、叶わなくて、自分が渇いていく。それを他人の音楽で潤して、同じことを繰り返す。
こんな僕からも、彼女は音楽を拾うのに。
僕は今日も、彼女の音楽に縋って、自分の力に渇くばかりだった。