attention : 星花慰本編終了後の出来事です。
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夏は朝から晩まで浮かれた人間がひしめいている海辺も、真冬の早朝には静かだ。このあたりには珍しく雪の降りそうな日で、鉛色の空は朝陽もろくに通そうとしない。湿った砂の上に立っている彼女はブーツもワンピースもコートも黒く、渚を眺める眼差しは過剰に透明だ。二年前の今日に冷たくなった母親のことを悼んでいる。愛するためのなにかを成さなくても、彼女は母親を愛していた。恐らく、他の人間と同じように。まるで母のように。慈しんでいた。きっと、自分を三回忌に呼びもしない親族一同のことも、悪くは思っていないのだろう。
「葵」
大きめの声で呼びかけると、彼女はまっすぐに振り返って微笑む。長い黒髪が海風に舞い上がる。曇った空の下では、その花に似た笑顔も褪せて見える。彼女がとことことこちらに歩いてくるのを待ちながら、軋む膝を左手で擦る。冬は立っているだけでも骨が痛むので苦手だ。
目の前までやってきた彼女の頬は寒さで白く、笑顔だけが異質に眩い。「車の音するなって思ったけど、仰くんだったんだ」と屈託なく僕を見上げる。
「わざわざ外で悼まなくても、感情は生物じゃないんだ。痛みやしないよ」
「心配してくれてるの？」
「そりゃあね。形見の娘は呼ばないのに本家の長男は呼ぶような見栄と偏見にまみれたくそったれどもより、よっぽど気にかけてやるべきだ」
「そんな言いかた……」
眉を下げ、反抗期の息子を見るような困り果てた表情をする。僕は肩をすくめて、口角をゆがめる。
「家族だって他人だよ。毛虫や蛆よりも嫌いだし」
「そうかもしれないけど……でも、そうね。仰くんのことだもんね」
彼女の声は小さく、見捨てられたこどものように弱々しい。うつむいたせいでよく見えるこぢんまりとしたつむじと、あまりにも色のない肌にため息をつきながら、首に白いマフラーをかけてやる。つややかな前髪が揺れた。首を傾げたらしい。
「仰くん、白いマフラーもってたっけ」
「買っておいたんだよ。お前、なにも買わないから」
「あぁ、……編んだんじゃないんだ」
「編んでほしかったの？」「ううん」
声が震えているように聞こえて、僕はふうむ、と一拍置いてから腰を曲げた。急に顔を覗き込まれた彼女は目を瞬かせて「な、なに？」と尋ねる。まばたきを繰り返したせいで、今にもこぼれそうだった水滴は弾けて消えてしまった。
「へんな顔。どうしたんだよ、そっちこそ」
「わたし？ ええと……」声を詰まらせてから、はぐらかすように首を傾ける。「なんでもないよ」
「あ、そう」
「仰くんはおかあさんみたいだなって思ったの」
「……僕、そんなに女々しいか？」
「ちがうちがう。ねぇ、これ駅ビルで買った？」
「そうだけど、駅ビルアレルギーとかある？」
「駅ビルで買っておいたのよ。雪風、あんたはほうっておくとなにも買わないから」
急に明るい調子で喋り出したあと、彼女はマフラーに口元まですっぽり埋めて、また花のように微笑んだ。なるほど意味を察した僕は、しかし戦場のような朝の持ち合わせなどないので「ゆっくり朝ごはんでも食べようか」と車に乗るよう促した。彼女は頷いて、軽やかな足取りで助手席のドアを開ける。僕も左脚をずるずるとひきずって、運転席に乗り込む。暖房をつけっぱなしの車内は暑いくらいだった。
シートベルトを若干拙い手つきでしめながら、彼女が呟く。
「マフラー、白がいちばんすきなんだ」
「持ってたことないだろ」
「ないけど。いちばんわたしが巻いてそうじゃない？」「なんだそれ」
「もしかしたら、恋人に編んでもらったマフラーを生涯大事に巻いてたかも。前世とか」
「早起きの余波で眠くなってきた？」
「ねぼけてません！」
202110-202202 / 通販おまけ無配