Hz

 店内に音楽を流すのはそもそも先代店主の趣味だ。僕自身は入った店で音の有無を気にしたりしない質だけど、お客さんのほうはそこで新たな芸術との出逢いも生まれるらしい。店内音楽にいちゃもんつけてくる人間がいないっていうのは、店をやってる人間として素直に幸運だと言える。
 その日は高嶋永久のアルバム数枚分を繰り返し流している。今はいない、歳こそ近いが娘のような女の子が置いていったものだ。作品を精力的に出していくアーティストのようで、時折ここに帰ってきては大量のCDが増える。毎日同じではつまらんと刷新していくので、必然的に、店で流すことも増えていた。

 僕の喫茶店ではドリンクや料理の準備が出来たら番号を呼び、お客さんがカウンターまで取りに来る。水もトレイを片づけるのも、なるべくセルフサービス。片脚が不自由でも問題無く店を回せるように、と僕の方からお願いしている。
 春先の平日真っ昼間とあって、店内に流している歌声が鮮明に聞き取れる。ピアノが転がり落ちるように弾む間奏、僕この曲好きなんだよな。暇がないとしっかり聞けないから、ちょっと得した気分。
 仕上がったオムライスとアイスティーを確認して、「2番の方」と呼びかける。一人で来ていた若めの女性が、ちょっと急ぎ足で席を立ち、やって来た。結構大振りなピアスをつけていて、それが浮かない程度にファッションとの調和がとれている。早い話がおしゃれさんだ。……こういう装身具に似合う服も今度考えて、みようかな。
「はい、オムライスとアイスティーね。確認してください。クリームソーダのタイミングは少し早めに教えてね」
 トレイを渡して笑いかける。女性は「ありがとうございます」と律儀に礼を述べ、両手でトレイを持つ。指にはピアスとよく似合うリングがいくつかはまっていた。自分がなにかとシンプルな服飾を好んでしまうものだから、こういうセンスには感嘆してしまう。

「あの」
「はい」おっと、なにか足りなかったか。
「いま流れてる曲、素敵ですね」
 女性は屈託なく、しかしてストレートに場を満たす音を褒める。裏表なく言っているのが伝わってきたので、「あぁ、ここにいる子の趣味なんですけど、僕も好きなんですよ」と淀みなく言葉が出る。相手が満足そうに自分の席へ戻るのを見送り、僕もフライパンを洗おうと背を向ける。
 ピアノが静かにソロを終え、他の楽器に混じっていく。ピアノは身近な楽器で、一番音域が広いのだと、そういえばあの子も言っていた。だからヘルツなのかな。僕は芸術にとんと疎いので、好きなら好きというそれでしか語れないのだ。

 

20220828
春波をくだく真昼 >深海線