Nagaku Takashima – came to say goodbye
彼女が自殺したのは三年前の冬だった。
死ぬなら夏、死ぬなら夏と繰り返していた彼女は、自分の問題をひっそりと片付け、終えきれないものについては俺に謝罪を送り、どうか自分とは身も心も縁を切ってほしいと締めくくって、死んだ。一緒に住もうとしているところだったのに、終わればなんともあっけないものだ。俺はあの冬住んでいたのと同じ、狭いアパートに一人暮らしをしている。
弱い、女だった。意思は強いのだが、意思以外はどうしようもなく人並みに満たなかった。彼女は歌詞を書きギターを弾いて歌う人間だが、いつも色の悪い額に眉を寄せ、パソコンに向かってあまり売れない歌を書いていた。売れない歌だけれど、俺は好きだった。彼女も自分の曲を愛していた。そこに金銭は必要なく、しかし創作には金が要った。生きることにも。
CDを出すたび「金欠で水しか飲めないぜ」と言っていたのに、俺の誕生日やクリスマスプレゼントを欠かしたことはなかった。優先順位がおかしい。それを現代日本では障害とか心の病とか言うのかもしれないが、俺からするとただただ彼女は生きにくそうだった。金がなく、身体は弱く、親には殴られ、誰も頼れず、心を壊し、人を恨めない。だから、自分ばかりすり減っていく。
彼女の貯金残高は空っぽで、どうやら借金もあったらしいが、債務整理は終えてあると手紙(遺書とは呼びたくない)に書いてあった。彼女が一番最後に買ったのは、俺へのアホみたいに高いバレンタインチョコレートだったんだろう。擦りきれるほど使い込んでいた鞄(俺が誕生日に、とあげたものだった)の中の薄い財布には、そのレシートだけが小さく折り畳まれて入っていた。
今でもその箱はとっておいてある。
未練なのか思い出なのか、俺には判別がつかない。
彼女が残した手紙には、とにかく謝罪と感謝と愛情を語る言葉がたくさんあった。飽きるほどあった。歌詞には到底ならないようなつたない文面だ。生きて言ってくれりゃよかっただろう、と泣いた。好きな人を失うのは、大切なものに何も出来なかったと思うのは、驚くほど辛かったし痛すぎてどう立ったらいいかもわからなかった。酒を飲んで前後不覚になることでどうにか表情を作れるようになったのすら、葬式から一月後だ。
彼女は俺や世界に救われないことを嘆いて死んだのではなく、ある日「あ、死ぬのって怖くない」と、まるで消費期限前の牛乳に気づくように閃いた。死ぬことも天国も地獄も来世も等しく恐れている女だったのに、痛いことも苦しいことも嫌いだったのに、そう閃いてしまって、そこから死ぬことを決めるまでは早かったのだと言う。知るかよ。言えよ俺に。相談しろ。結婚くらい大事なことだろ。
なんとなく、彼女が常にいろんなものに絶望してることはわかっていた。でも同じだけそれらを愛していると知っていたから、生きるだろうと思っていた。俺は生存主義だから。生きてりゃどうにかなるって思うから。あんなに近くにいたのに根本の根本がわかりあえてなかったことを、俺はめちゃめちゃ笑って、三倍泣いた。
返せ、と思った。
世界か、彼女か。なんでもいいけれど。
俺の好きな人を返せよ。
勝手に殺すなよ。
俺が彼女の数少ない遺品であるギターを持ち、聴き専だった音楽を趣味として作るようになったのは、まぁつまりそういうことだ。あの日からずっと恨み言を歌ってる。幸いにもそれを曲として好んでくれる人はいて、同情もされたくないから彼女のことは話してない。ギターが貰い物なことだけ、公言してる。そのアコギは絵の具っぽい水色で、どう見ても俺の趣味じゃない。
歌うことは、俺に少しずつでも彼女を消費させた。
俺は案外迷うことなく、彼女の好きなところきれいなところ愛すべきところは心の奥底に保存して、恨み言だけを歌えていた。彼女が死んだ季節は毎年具合が死ぬので、彼女が通ってた病院にかかって薬をもらってた。春先になると嘘みたいに直るから一旦通院やめて、寒くなってくると死ぬから電話かける。その繰り返し。事情を知ってる友達に「アニバーサリーリアクションってやつ?」と言われたけど、たぶん当たらずも遠からず、かな?
よく彼女と訪れた駅前に座りこんで、覚束ない口と手で歌った。俺の作る音は俺の好きなアーティストの劣化コピーみたいなもので、だけど音楽のオリジナリティや善し悪しがわかるほど肥えた耳はしていない。感情を吐き出すためにギターを持った。世界への恨み言を連ねるために口を動かした。
そう、俺は。
ちゃんと彼女を消費、してた。
彼女の死に様だけは絶対に、思い出さないように。思い出すと、死んだってことがわかるから。俺の心の弱い部分にそれがバレるから。俺と彼女は音楽性の違いで解散して、どっかで彼女は健やかにやってる。金はないけど。それでいい。そう思いたい。思わせてほしい。劇的で完璧な喪失なんてほしくない。
そんなもん食うなら俺が死んでしまった方がよほどいい。
のに。
◇
「高嶋永久です」
その女が歌以外に話したのはそれと、各曲名、それから最後の「ありがとう」だけだった。小さめの箱で活動するインディーズはどれだけ聴き手と自分の距離をなくせるかが勝負だと思ってたから、ぼちぼちに衝撃だった。個人差はあるが、ストイックなんだなというのがその女自身への印象だ。
ぞっとしたのは、その女の音楽のほうだ。
終盤は名前すらおぼろげになるほど、音楽だけを浴びせられた。蒼いライトがそいつの髪を照らして、抱えているアコギが俺のものとは比べ物にならないほど切なく歌った。
その、歌が。
歌が。
彼女のことを、思い出させて。
歌われたのは他愛のない、離ればなれになる二人の歌だった。そいつの曲はよく言えば幅が広く、悪く言えば雑多だった。とにかくあらゆるものが歌われていた。戦争に行く男が空想の恋人に宛てた手紙、海を歩くくたびれた男と娘のようなこども、花が咲いたら世界が終わると思ってる少年のうた、映画を見続ける老人、あの古い踏切、夏に死んだ恋人を氷で覆う女、貸してもらった漫画、桜貝の通過、夕日の坂道、終わるローカル線、携帯が止まった誰か、生きている誰か、死んでいく誰か、のなかに。
俺は、彼女を、見た。
俺にはそんな音は作れない。ありきたりかもしれない、どこかで聞いたことはあるがどこでも聞いたことのない、そういう音楽だった。
ライブハウスで、声をあげて泣くわけにはいかないから早足で隅に行って、声を押し殺してうずくまった。「正しくなれはしなかった」彼女より、よほどその女のほうがギターも歌も上手かった。似ても似つかない。「いなくなってしまえたらよかった」でも、「そんなの」でも、彼女が、「いまさらだ」彼女がそこに、いるような。
「どこにもいけない歌ばかり積み上げた」
「遠くへいきたかった」
「簡単なことすら大層にしたがる人が嫌いだ」
「大切なことも簡単になくす僕が嫌いだ」
うずくまり、顔を腕で覆い泣いている俺に、ライブハウスの店長が黙って水を渡してくれた。しゃがんで目線をあわせてくれる店長に、すみません、と聞こえないくらいの声でか細く礼を言うと、彼は少し笑って首を振った。大丈夫? と、口が動いたようだった。俺はこのライブハウスを歌う側として使ったことないけど、いいとこなんだろうなと思う。彼女のことを思い出さないように必死になるけど、歌は続く。俺のことなんて関係ない。
「おまえのせいだって、言えば、君が救われるの知ってたよ」
じゃあなんで言ってくれなかったんだよ。
言葉が、端から歌に吸い込まれていく。俺の気持ちがどんどん透明な悲しみで埋まっていく。透明になったらもう心には誰も残っていない。遺っていないのがわかってしまう。
酷い。酷い。俺はこんな風に彼女を歌えないのに。彼女が作る歌はこんなに綺麗じゃなかったのに。彼女を見せないでほしい。彼女じゃないのに。いないのに。死んだのに! 俺の好きな女は!
歌には救いも意味もない。
その歌を歌う女の名前は、タカシマナガクと言った。
2020.10.30/加筆修正:2021.02.02