晩夏と初恋

 

「三人、いたよ」

わたしはよどみなく、指を三本たてて首をかたむけた。さわがしい昼休みの教室でわたしと談笑にふけっていた水屑くんが「へぇ?」とわかってなさそうな顔でうなずき、「三人って、同時に?」と質問を重ねる。わたしは迷うことなく首肯する。
「なんか、珍しい感じすんね」
「そうかな?」
「うん。そもそも三橋に初恋の相手いたんだーって……言うと失礼だけどさ」
「それはほんとに失礼」わたしはちいさく笑う。言葉ほどそう思ってはいない。水屑くんだって、本気で怒られたとは思っていまい。
「悪い悪い」
無邪気にごめんねのジェスチャーをする水屑くんに肩の力を抜いたとき、「何の話?」と声がかかる。顔を向けると、秋雨と湯島くんがふしぎそうにわたしたちをみつめていた。隣のクラスから来た幼馴染みに水屑くんは意気揚々と「三橋の初恋話」と語りだす。本人の前でそんなたのしそうにしゃべりだすもの?
「へぇ、三橋に初恋……初恋……?」秋雨が近場から椅子だけを引いてきて、興味深そうに、ちょっといぶかしげに反芻する。
「わたしに色恋沙汰が似合わないって思ってるのはいいけど、もうすこし隠しなよ」
怒ることでもない。惚れたはれたが特別得意なわけでもないのは自覚している。秋雨もわたしの言葉をさして気にすることなく、「いつ頃の話?」と詳細を求める。口先だけでも反省しろと目を細めるけど、この友人たちにとってはわたしが自分の話をすること自体が非常にめずらしく、おもしろいことなのだろう。心配はしてくれるけれど、ふみこまないでほしいと願えばその通りいてくれる友人たちだ。距離を保っていてくれるやさしさを考えると、ひきしめていた目尻がゆるんだ。
まぁ、べつにいいか。
わたしはコンビニのおにぎりふたつを机の上にだして、口を開く。

「十歳のとき」
「小学四年生? 相手も?」
「相手は三人とも高校生」
包装を剥がしながら、すこし目を伏せて思いだす。秋雨は購買のパンを数個、水屑くんと湯島くんは弁当箱を机に広げて、授業の五倍は真剣に耳を傾けている。おもしろいくらい真摯なまなざしに、笑ってしまいそうだった。
空気を吸い込む。
高校二年生の教室には春の匂いが満ちている。
まだ、桜が散って間もないのだ。
ゴールデンウイークが終われば、青々とした夏の匂いがさわやかな風と共に抜けていく。爛漫とした花の匂いが生命力を増していくころの、なにもかもが微妙に浮わついた時期。
あのころの記憶は、それらの匂いと濃厚に結びついている。
「……ききたい? わたしのことなんて」
「俺は知りたい。けど、三橋さんが話したくないことなら無理に話す必要ないよ?」
柔和に笑った湯島くんは、たんぽぽのような匂いを揺らしながら「でも、俺は知りたいな」とやさしく続けた。
「だめ押しされたらしょうがないね」
「やった」
「俺最初にネタバレ欲しいタイプなんだけど、まず結局どうなったのかだけ聞いていい?」
「叶多、本読みの友達の前でそれ言う?」
間違いなく読書にもアニメ鑑賞にも向いていない性格をなんの気負いもなく暴露した秋雨は、わたしがなにか言うよりはやく「あ、でも今三橋彼氏いないか」とひとりで納得までこぎ着けていた。すでに友達でなければそっと知り合うのをやめていたほどデリカシーがない。かまわないけど。
「初恋は叶わないって言うでしょ」
「そうなんだ?」水屑くんが特大のおにぎりを頬張りながら、初知り! と言わんばかりに目をまるくする。素直な反応に、ついにこにこしてしまった。
「なんだかね、むかしからそうやって言うんだよ。実際のところはわからないけど、わたしはそうだったの……」
鮮明によみがえりすぎると息が出来なくなるので、わたしはあまり、はっきりした口調で思い出を話さなかった。あいまいに彼らのことをつぶやいていくわたしを、友人たちはだまってみつめ、時折相槌をうった。

初恋のひとは三人いた。
同時に、複数人。三人とも十歳の夏に出逢って、十一歳になる目前にわかれた。

本人たちに告げることも、誰かに相談することも終ぞなかった。三人と一緒にいたのは一年にも満たない間のことで、わかれてからの時間のほうが遥かにながい。わたしはあっという間にあのころの彼らと同じ年になるし、彼らはそのぶんだけおとなになっている。その間一度だって顔をあわせたことも、声を聞いたこともない。
あのころ住んでいた街は高校生になって考えるとそう遠くないし、よく遊んだ公園をおとずれることも容易だ。実を言えば三人に教わった電話番号もいまだに憶えているので、電話をかけてみることだって出来る。けど、現実には漫画やドラマのような運命なんてないから、すがるような気持ちで公園に行ったって会えなかったし、いまさらなにを言っても遅いと臆病が芽生えて電話もかけなかった。思い出だけが鮮明なまま、一生会うことはないのかもしれない。

それでも、咲いていたものはあった気がする。
わたしは三人にとって妹のような年下の女の子で、わたしは彼らを兄のように呼んだ。他人同士が家族のようにいつくしみあって、年下の少女であるわたしが三人を過度に慕う様はいびつだったろうけど、わたしはしあわせだった。
そういう話で、それだけの話だ。

小学四年生の夏休み明けは酷暑の残滓にまみれていた。蝉も鳴いているし気温もいっこうにさがらない、夏の延長戦。先月十歳になったばかりのわたしはその日もかわらず紅色のランドセルを背負い、家までの道をはずれて駅前商店街を歩いていた。迎えが来てしまうまで、わたしは毎日のように通学路ではない場所をぶらつく。迎えよりもあぶないものはその当時のわたしになかったので、知らないひとについていかない、という標語は頭になかった。
薄暗くしずかな本屋で一時間ほど小説を立ち読みして、店を出たわたしはさてどこへいこう、とふらふら歩きだす。ランドセルの中身がかたんと揺れて。

「――ねぇ、いま帰り?」

ふいに、軽やかな声がわたしの脳天にふってきた。
街中を歩いていて声をかけられたことなんてなかったので、宛先が自分だと気づくのにすこしの時間を要した。そうっと顔をあげると、ひとなつこい笑顔を浮かべた制服姿の男のひとが、わたしと目をあわせて笑っていた。
わたしはランドセルのベルトを両手で握りなおして、首を縦に振る。
制服のおにいさんは「そっかそっか」とやさしく笑いながらひざを折って、わたしの目線までしゃがんでくれる。顔が近くなると、ふわりとリンドウの匂いがする。おにいさんのみじかく結んだ髪の先が光に透けて、ノウゼンカズラの花びらが思い浮かぶ。じっとみていると、おにいさんが自分のほっぺを指さして「痛くない?」とたずねる。
「……これ?」
わたしも自分のほっぺを指さして、首をかしげる。朝に鏡でみたとき、右ほっぺから目元にかけての肌が青紫にはれていた。きのう要(かなめ)さんに殴られて、倒れたとき顔の右側を床にぶつけてしまったのだ。みためがきもちわるいし変色している部分もひろいから、あんまりひとにみえないように、下をむいて歩いていた。
先生もクラスメイトも、ほとんどのひとがわたしの顔をみてみぬふりするけど、時折面と向かって「きもちわるい」をぶつけてくる子がいる。あたりまえだ。だから気味がわるいことは理解していたし、おにいさんが向けてくる怯えや嫌悪のないまなざしのほうが、よほどそわそわした。
だって、こんなやさしい目は知らない。
「うん、それ。痛くない?」
おにいさんはやっぱりひとなつこい笑顔で、わたしの目をじっとみる。今度は首を横に振って、「ぜんぜん、へいき」と答える。いままで怪我をしても叩かれても殴られても血が出ても、いたくなったことは一度もない。だからきょうも、わたしはなんともなかった。みているひとが気分をわるくするかもしれないけど、わたし自身は。ほんとうに。きのうとなんにもかわらない、きょうだった。

「名前、なんて言うの?」
「わたし?」
「そう」
「こ、……是枝葵」
「是枝葵ちゃんね。ふうん」

いやみなくうなずくおにいさんに、ぼそぼそと「葵でいい」とつぶやく。おにいさんの顔がすぐそばでほころんで、またリンドウの匂いがする。
「そっか。名字より名前で呼ばれたい?」
「……うん」
是枝葵、という名前はもう四年目だけど、いっこうに慣れることが出来なかった。学校でも呼ばれることはすくないし、家ではみんなわたしを葵と呼ぶ。なんとなく、名字の部分にわたしをあらわしてくれるものはないと思っていた。
おにいさんはにこーっとごきげんそうに破顔して、「俺ね、楓」「かえで」「葛楓。名前で呼んでいいから」「かずら、かえで」どっちも植物なんだ、と身勝手にうれしくなる。花がすきだから、ごく当然に花の名前もすきだった。毛先をノウゼンカズラの色みたいだと思ったことも、名字を聞いたら知らないうちに宝物をみつけてたような気持ちになる。わたしが急ににこにこしたのをみて、かえでさんが「お、かわいいかわいい」と頭をなでてくる。手つきがやさしくて心地いいので、頭をすこしだけ掌のほうにかたむけた。知らないひとだけど、知ってるひとよりずっと安心する。

「楓、急に話しかけたらびっくりするじゃん」
かえでさんと同じ服装のひとたちがふたり近づいてきて、わたしとかえでさんをみる。楓、とおにいさんを呼んだのはチューリップの匂いがするつり目がちのきれいな男のひとだ。だまってわたしの顔を見下ろしているもうひとりは、ながい睫毛にふちどられた切れ長のするどい瞳が浮かないくらい、顔全体が整っていた。美術品みたいにきれいなそのおにいさんからは、クレマチスの匂いがする。自分の青紫にはれた顔をみられることがすこしはずかしくなって、肩をちぢめた。
年上のひととまともに話したことがなかったのもあって、わたしはじっと息をひそめて、三人の顔をうろうろとながめていた。同じズボンをはいてるし、多分同じ学校のともだちなんだろう。そういうあたりさわりのないことは把握出来ても、どうしてかえでさんが声をかけてきたのかについて、納得のいく想像が出来なくて立ちつくしていた。
チューリップのおにいさんが体育座りくらいにふかくしゃがんで、わたしよりちょっとひくい目線から「ごめんね、急に話しかけちゃって怖かったよね」と眉をさげる。
「……ううん」
「えっと、俺はね。日吉祐樹っていうんだ」
「ひよし、ゆうき……さん」
「好きに呼んでいいよ。俺も名前で呼んで大丈夫?」
「うん。えっと、わたし、葵です」
「葵ちゃん。かわいい名前だね」
ゆうきさんが顔をほころばせて、いとおしむようなあたたかい色を瞳いっぱいにうかべる。それから横でひとり立っているままのきれいな男のひとを振り返って、「瞳も! 挨拶」とつよめの声でうながした。
きれいな男のひとはわたしのことを静かにみつめて、「冴木瞳」と手短につぶやいた。
「さえきさん」
「……瞳でいい」
ぶっきらぼうだけど、声にも態度にも侮蔑や嫌悪がないのはわかった。切れ長の目に、ぼんやりした顔のわたしが映っている。くろぐろとしたきれいな目から、感情を正確に読み取るのはむずかしかった。

「葵ちゃん、おうちには帰りたくないの?」
ひとみさんを見上げていたわたしは、かけられた声のほうへ視線をうつす。ゆうきさんが眉をやんわりとさげて、顔以外にも手や胸元に散らばっている、わたしの痣をみつめていた。膝丈のワンピースでは隠しきれない全身の打撲痕が、ひとにどんな印象を与えるのか、そのころのわたしはよくわかっていなかった。きもちわるいものでしかないと、思っていた。
「……かえりたくない」
ランドセルのベルトを強く、握りなおす。
帰りたいと思わないのなら、それが帰りたくないということなのは簡単な式だった。学校にもいられないけど、家にはいたくなかった。
商店街を歩いていくひとたちが、わたしを囲む三人のことをちらりとみては、なにも言わず通りすぎていく。かえでさんがあたりを見渡して、「場所変えよう」と立ちあがる。
わたしはゆうきさんに差しだされた手を、なにも言わずに握った。
チューリップの匂いが、すえた夏の匂いを塗りかえていく。

商店街をすこし離れると、消しゴムをかけたようにひとの数が減った。閑静な住宅街はよく知っている道だったし、知らないひとと歩いていることに危機感はなかった。もう名前も知ってるし、一番あぶないのは迎えだ。
「葵、おなかすいてない?」
ゆうきさんに手をひかれて歩くわたしを見下ろして、かえでさんが首をかたむける。「えっと」と言ったきりだまるわたしに、かえでさんが鞄に手を突っこんで、いちごみるくと書かれた袋から、ひとつちいさななにかを取りだす。飴だ、と理解はしたけど、そこでわたしの動きは止まった。
差しだされた飴を、じっとみる。
受けとれない。
「い、いら……ない」
「おなかすいてないの?」ゆうきさんが心配そうに、わたしの顔をのぞきこむ。
「ううん。でも、いらない、いらないの」
すこし前、梅雨の時期に何回か話した男のひとが、要さんに殴られることがあった。わたしにアイスココアをわたしているのを、要さんがみつけてしまったのだ。思いだすと、いまでも胸が苦しくなる。もうあんな景色はみたくなくて、学校から帰るときの道を遠回りに変えたばかりだった。
首を振りつづけるわたしに、ゆうきさんがなにかはっとしたようにまばたきする。「葵ちゃん、あのさ……」と話し始めたとき。

遠くから百日紅の匂いがした。
背筋が冷える。

匂いに遅れて、「おおい……」と、亡霊にも似た低い声が聞こえる。しんとした住宅街にはそのくぐもった呼び声がよく響いて、わたしはとっさに、振り払うようにゆうきさんの手を離した。ふしぎそうにわたしを見下ろす三人に、頭をさげる。
「ごめんなさい、わたし、帰らなくちゃ」
ランドセルのベルトをにぎって、早口でまくしたてる。不吉な呼び声はだんだん近づいてきていて、もう時間がなかった。わたしというこどもの生活は、わたしのものではない。それを端的に説明出来る気がしなくて、頭をもう一回さげてすぐ、走りだした。
走って離れてから、手を振り払ったことを後悔した。
飴を受けとらなかったことも。
うまく話が出来なかったことも。
無下にする、という言葉が頭を埋め尽くす。辞書でみて憶えただけの言葉が、ものすごい鋭さでわたしの胸を突き刺していた。蝉の声が遠い。どうしてか鼻の奥がじんとして、視界がにじむのをこらえて、わたしは走り続けた。花の残り香が、風にまぎれていった。