潮の匂いがすると、最初に脳裏に浮かぶのは錆びるのではないかとか、砂を噛むのではないかとか、そういう機材への気遣いになりつつあった。そんなこと言ったって、潮も雨も砂もすべてこのカメラと一緒に超えていくしか、ないんだけどね。
春の海はあまり明るい青色をしていなくて、光を多く反射することで海らしさを作り出していた。かしゃんとシャッターを切る。何気なく存在するにはあまりに大きな水のかたまり。引力によって波が生まれるから、光り、輝く。海が光っているわけじゃない。海はいつでも空の鏡だ。春の空は淡い水色で、そのわずかな青を見つけるよりも先に、挿し込む白い光を跳ね返していく。撮った写真をカメラの画面を確認する。陽の光が反射してしまって、見づらい。
関東、神奈川、湘南の海。ぼんやりと眺めれば海に向かって伸びる橋と、その先にある島が見える。江の島だ。この一年弱、いろいろな海を見て回ったけど、思い出の中に在る海はこいつだったな、などと思い返す。思い出すものは選んでいくことにした。だから、海で思い起こすのは友達と行った高三の夏の海ばっかりだ。この、海だ。
高校生のころ、俺には大事な人間が三人いた。海に行ったのはそのうち二人の、同級生だった。泳げないようなやつと泳ぎたくもないやつというとんでもなくつまらん取り合わせだったけど、楽しかった。
もう一人は、俺よりかなり幼い女の子だった。その女の子に出逢ったことをきっかけに俺たちは前に進み、その女の子と別れたことをきっかけに俺たちは少しずつ綻んでいった。そういう、大事なひとたち。
妹のようにかわいがっていた女の子。今は何をしているだろう、幸せに、なっているのか。どうだろうか。良いほうの想像も、悪いほうの想像も、あんまり上手にできない。目の前にないことはないのと同じだ。生きているとか死んでいるとかすらもわからない。不確定な想像をすることは、不誠実だと思う。
「楓」
と、少し遠くからよく通る声がした。声の方を振り向く。海岸から離れた防波堤の上、伏見だ。少し前に知り合った同い年の俳優。道行く人誰しもの心に残るような人。その距離でここまで声が通るもんかね。自分の目で見るよりも望遠レンズの方が近いので、レンズ越しにそいつのほうを見やる。金色の髪と赤みがかった煌めく目、これが天然のものだって言うんだから神様ってのは意外と真面目に仕事していやがる。
「仰(あおぐ)が、まだもう少し忙しそう、だと」
カメラを構えて自分を見ているからだろうか、ゆるくピースサインをしながら、喫茶店店主からの伝言を俺に伝える。こういうところのちょっとした茶目っ気がきっと人をより強く惹きつけるのだろうなと思いながら、一度シャッターを切った。どんな瞬間でも絵になるもので、こちらの方が眩しくなるくらいしっかり陽を受けながら、海のように輝いていた。
「お茶でも買って、そっちに行く」
「おー、三ツ矢サイダー」
品名だけ叫んだ俺に対して朗らかに了承を告げ、伏見は海岸に背を向けて歩き出した。こんな失礼なやつにまでそんなにこやかに応えてたら身が保たないんじゃないか。誰にでも自然と希望通りの姿を見せる類まれなる才能のことを、羨むのでなくてちょっとだけ憂う。
今日は海を見にきていた。と言ってしまうと多少の語弊がある。海は副産物だ。海辺にあるとある店に向かう途中だった。伏見の友人が経営する喫茶店だ。
伏見。小宮(こみや)伏見、芸名は伏見裕樹。どっちも名字みたいだねと言うと、君は「かっこいいだろう」と笑った。
俺にしては珍しく、決死の気持ちで連絡先まで交換した相手だ。新年会は幸いにも歳が近い人が少ない場所だったので、なんとなく話もしやすかった。聞けば全くの同い年で、それもあって話が合った。俺は伏見をひと目見た瞬間の衝撃を、なんとか相手に気取られないようにと苦心した。こういう感じで見惚れてしまうのは、どうにも、よくないと思うから。
伏見とはなんだかんだとかなりの回数会って、遊んでいる。時々そのことが不安になる。耳の奥で血潮の流れるようなざらつく音がする。仕事でもない限り、一人の人と長く一緒にいることは避けてきた。そう決めてきてしまったというのもある。いくら伏見が大丈夫と言って俺の手を引っ張ったって、恐ろしいものは恐ろしい。
特にここは、言っても俺の実家から遠くはない。実家自体が悪いわけではないんだけど、それは断じて違うけど、ただぼんやりと眺める風景の端に彼女がいないかと視線を泳がせ探してしまう。沖縄や北海道の絶景を撮りに行っているのとはわけが違う。常に心臓の一部が重たい鐘のようだった。
自由の身というやつになって初めて迎える春は特段変わったこともなくやってきていた。冬も、秋も、勝手にやってきていたように。夏も、おそらくやってくるだろう。希望的観測ができてしまう。そんくらい、当然のように時間はすぎるものだった。
昨年の夏ごろ、家を飛び出した。二十三になる年まで来て、ようやっとの家出。遅れてやってきた反抗期みたいなもんだと思ってほしい。俺の逃亡は計画的だった。先にも触れた高三の夏、俺は自分の現状から逃げ出すことを決めた。自分のことを束縛したい存在がいること、それが自分の大事なものに危害を加えていくこと、を、我慢することを辞めた。それで、あと、戦うことも辞めた。逃げ出すことが、俺がいなくなることが、何よりもの復讐で攻撃で唯一持つ俺の強さだ。
詳しく話すようなことじゃないけど、俺と結婚したいくらいに俺のことを好きだという少女、そうだね、一生少女のようなひとだから、今でも少女と呼ぶことにしよう。俺はその少女のことを、好きになることができなかった。それだけだったんだけど、それだけと言うにはあんまりに他の要素が大きすぎて、いろいろと、手遅れで。結果として、彼女との結婚前夜に俺は逃げ出したのだった。
約五年をかけた大勝負だったと言っていい。一番最悪なタイミングで逃げ出してやろうとだけ思いながら息を潜めていた。通った結婚式場の景色も、無数に並ぶウェディングドレスの中から一つを選ぶとき適当に天の神様に聞いたことも、なにもかもが遠く霞む。
もう誰一人俺と一緒に逃げてくれることなどなくなった先、一人っきりの大芝居だった。
逃亡日から半年たった頃、予定されていた結婚式はつつがなく〝終了〟した。らしい。それっきりだ。怖いくらいのそれっきりだった。だからって、めでたしめでたしお家に帰りましょう、とはいかないわけで。俺はいろいろな地方を転々とし、幸いにも理解ある人たちによって仕事をもらったりなんだりし、生き延びていた。もともとある程度の資金も貯めていたし技術も色々身に付けていたから、生き抜くことは苦じゃなかった。誰も俺のことを知らないところに行くことは俺のことを晴れやかな気持ちにすらさせた。いや、でも本当にさ、写真を本格的に学んでおいてよかったと思うよ。これのことを、嫌いにならなくてよかった。切り取った世界のことじゃないとうまく咀嚼できない、そんなやつでよかった。
「あー、」
自分の口から、ため息のような声が漏れる。長々と記憶を再生してしまった。伏見が来る前になんとか切り替えておかないと、心配をかける。なんか俺のことよく見てるっぽくて、伏見にはバレるんだよ。すう、と息を吸い込んで、再びファインダーを覗き込む。水面ばかり見ていると、どうしても考えが自分の内側に向いてしまう。浜辺に画角を移す。一気に情報が増えて、頭の中のメモリがそっちに持っていかれた。
一人、海辺にしゃがみこんでいる人影があった。距離はそこまで遠くない。望遠レンズ越しだからというのもあるけれど、むしろ近い。今まで水平線ばかりを撮っていたから気がつかなかっただけだ。メートルに直しておよそ十か、十五もないか、そこらの距離だと思う。
人が写り込むのは避けたい、と、画角をずらすつもりで少しだけピントを動かす。たまたま、たまたま、その人にぴったりとピントが合った。ゆっくりと何かを光に透かす、少女。
記憶が、自分の中の一コマを引きずり出す。夏だった。その日は今日なんか目じゃないくらいに暑かった。その女の子は誰一人味方のいないような姿で、駅前の広場に居たのだ。俺にはきっと一コマずつの季節のメモリがあって、その中の残暑、それは彼女の形をしていた。
「楓お兄ちゃん」
しない声がする。するはずのない声が。不誠実だと思う。見えないものを、見たように想像するのは。俺にはそんな聡明さはないから。俺がもっと賢くて、もしくはもっともっと感情だけで生きていたら別だったかもしれない。あの子はいまどうしているだろうかと、考えることが、出来たかもしれない。
でも、そんなのはない話だ。俺なんてもう、見えるものすら信じてない。じっと、自分が残したものだけを信じている。そのメモリだけを。
人影が、ゆっくりと立ち上がり、振り向く。逆光、水面の向こう側の太陽が馬鹿にしたようにうるさい。けれど、けれど、俺にはその顔がはっきりと見えた。
――妹だった。
written by Togi