ほんとうに、まばたきをしていたら夏が暮れたようだった。
 あしたから十月になる。
 駅前の花屋に並びはじめた秋の花をながめていると、「おい」と声をかけられた。
 耳慣れた声に振り向くと、参考書ぽい分厚くてちいさな本を持った瞳さんが、ひとりわたしを見下ろしていた。「こんにちは」と頭をさげる。ふたりは近くにはいないみたいだった。
「なに見てんだ」
「おはな」
「好きなのか。……好きって言ってたな」
「すごくすき。家でもたくさんおせわしてる」
「お前が?」
「うん。わたしがやらないと、お花ぜんぶ枯れちゃうから」
 要さんは花を枯らすことにおいてこれ以上なく才能があるし、文月さんは根腐れか枯らすかのいやな両極端だ。睦月はわたしが届かない場所に水をあげたりはしてくれるけど、花自体にそこまで興味がないらしい。わたしは花をみるのもせわするのもすきだし、そういうのは興味があるひとがやればいいので、わたしが庭の花をみている。
 要さんもわたしが花をみていることについては、なにも言わないし。
 瞳さんがすこししゃがみこんで、わたしがみていたコスモスとネリネとながめる。「ふーん……」と静かに花を見渡してから、花屋のお客さんがわたしたちを必要以上にみていることに気がついて、顔をしかめる。
 瞳さんは街中でも目を引く、とにかく単純に美しい顔をしている高校生だ。祐樹さんも美人だし、わたしの知り合いで言えば睦月や文月さんも顔が整っているほうだけど、瞳さんのそれは人並みの「美人」とあきらかに違った。わたしのまだみじかい生涯でも、要さんと同じかそれ以上にきれいかもしれないひとをみたのは、彼がはじめてだった。
 するどい瞳はひとに高揚を与え、通った鼻筋や輪郭はひとを当惑させる。手足は長くすらりとしていて、制服姿で立っているだけでもどこか様(さま)になる。魔的なほどの端整さをうつくしいと形容してしまうのは簡単だけど、わたしはそう言いたくなくて、瞳さんの顔を褒めそやして通り過ぎていく街のひとたちを、いつも苦い顔で見送っていた。
 いまも花屋の店員さんや客のおねえさんたちがみているのは瞳さんの顔や細長い指ばかりで、その横でランドセルを背負っているわたしには目もくれていない。わたしの顔は整っている云々のまえに大体傷か痣だらけなので、みないでいてくれるほうがいいけど。
「買いたい花でもあんのか」
瞳さんはわたしの顔をのぞきこむ。わたしが首を横に振ると、「あっそ」とちいさくうなずいて、分厚い本を鞄にしまう。空いた両手のうち片方でわたしの手をとって、「行くぞ」と歩き出そうとする。
 そこで、わたしがひょこひょこと、右足を引きずるように動いているのに気がついた。
「……足、痛いのか」
「いたくはない」
「わかった、質問変える。今日は歩きにくい?」
「……」考えて、ちいさくうなずく。きのう要さんに屋根裏部屋へ連れられたとき、階段をのぼっている最中に一回、足をすべらせて落ちてしまったのだ。要さんが引きずるように持ち上げて屋根裏へ放りこんでから、いたくないけどずっと違和感があって、思うように動かせない。屋根裏から出るときは文月さんが抱えておろしてくれたけど、きょうは歩くだけですこし疲れる。
 でも、めずらしくもない。
 いつもじゃないけど、それなりに、よくあることだった。
「あの、歩けるよ」とつぶやきながらいつも若干不機嫌そうな顔を見上げていると、瞳さんは眉間にしわをよせてなにやら考えこんだあと、手を離してわたしをひょいと抱き上げた。視界が一瞬でぐんと高くなって、瞳さんの肩にしがみつく。
 駅前を歩くひとたちは、わたしたちのことなど気にも留めずにせわしなく歩いていく。
 まだすこしだけ蒸しあつさの残る午後、抱えられて肌がふれているところがぬくぬくとあたたかい。高校一年生が小学四年生を抱きかかえるのがどれくらい簡単で困難なのかわからないけど、ふれている腕はうっすら汗ばんできた。
 瞳さんはわたしを抱えたまま、花屋の横にある数段の階段をのぼって、駅前広場のほうへ出る。
「あの、ほんとに、歩けるよ……」
「あとで葛に渡す。黙って抱えられてろ」
 ぶっきらぼうだけど、怖いわけじゃない。むきになるほうが目立つから反論するのをやめて、おとなしく細い腕の中におさまった。黙々と歩いていく瞳さんの顔に街のひとが時折視線を奪われて、抱えられているわたしをみては気まずそうに目をそらす。おととい棚のはしでほっぺを切ったせいでおおきなガーゼが貼りつけられていて、きのうからのわたしはみるからに痛々しい感じなのだ。
 と、ふいに「――冴木?」知らない声が瞳さんを呼んだ。瞳さんより先にわたしがそちらを向くと、三人と同じズボンをはいた男のひとが、わたしと瞳さんの顔を見比べてふしぎそうにまばたきしていた。
 多分、おなじ学校のひとだ。とりあえずぺこりと頭をさげると、向こうも丁寧に片手をあげて返してくれる。瞳さんがめんどくさそうな顔をそのひとに向けると、男のひとはすぐさま「誰?」をわたしを指さした。
 なにを言っても墓穴を掘りそうなので、わたしはじっと口を閉じていた。
「……妹」
 瞳さんはごく普通に、普段と同じ声音でそう答えた。尋ねた男のひとはわたしの顔をじろじろ観察して、「似てねえなー」と冗談めかす。
「俺と顔が似てる人間が親兄弟だろうといるわけねえだろ」
「まーそれもそうか。でもお前、小学生の妹だっこして歩くような性格だっけ?」
「俺に似ず鈍くせーから体育で足ひねったんだよ。普段は歩かせてるに決まってんだろ」
「あぁ、なるほどね」
 自然に吐き出される嘘を疑わず、男のひとは破顔した。わたしに笑顔を向けて「性格きっついお兄ちゃんで大変だねえ」と軽口を添える。怪我はみないようにしてくれているのか、視線も言葉も頬や腕にはふれてこなかった。
「う、ううん。お兄ちゃん、やさしいです。すごくすき」
「お! なによなによ、かわいい妹ちゃんじゃん」
「うるせえバカ」
 男のひとはまもなく「あ、じゃあおれ用事あっから」と言って、あっという間に駅のほうへ走っていった。風のような速さで消えていった背中をながめていると、瞳さんが疲れを吐き出すようなため息をついて、また歩き始める。
 ゆらゆらと、規則的に全身が揺れる。瞳さんの横顔はしんと静かで、きょうも変わらずクレマチスの匂いがする。通年うつくしい、偉大な花。つる植物の頂点と称えられる花の匂いは、まちがいなく瞳さんに似合った。たくさんのひとが見惚れるのもわかる。一緒にいて顔をみつめてもわたしの心が凪いでいるのは、別段焦がれる必要性を感じないからであって、誰もが慕うかんばせというものが確かに存在することは、いやというほどわかっていた。
 不便や不愉快すら生まれるであろう、人から逸脱した美貌。
 抱えられながらみつめるすぐそこの横顔に、ふしぎなほど畏怖も仰望(ぎょうぼう)もわかなかった。すらすらとよどみなく並べられたさっきの嘘を思いだすと、自然と口が動いた。
「……おにい、ちゃん」
「なんだよ」
「あ、なんでもない。ごめんなさい」
「……別に、どう呼んでもいい。瞳さんとか呼ばれるよりむずがゆくねえし」
 駅前広場につくと、ベンチにわたしをおろしてとなりに腰かける。鞄からさっきの分厚い本を取りだしてめくり始めるので、わたしもランドセルをおろして中から小説を取りだす。
 文月さんがくれた、文月さんの書いた本だ。
 文月さんは小説家の先生で、くわしく知らないけど若いひとを中心に結構売れているらしい。わたしがはじめて会ったときにはもう小説家になっていて、ほぼ毎日二階奥の書斎にこもってパソコンを叩いている。朴訥とした性格と飾りけのない容貌に反して、文月さんの小説は嵐のように激しい性格の登場人物が多く、それが多感な思春期から青年期の読者にウケている、……らしい。睦月が肩をすくめながら話していたことなので、真実どうなのかはわからない。その睦月も文月さんの小説を読んだことはないらしいし。
 小説に出てくるヒロインの少女が毎回どことなく似通った人物像で、花の名前がついていて、かならずどこかにいってしまうことしか、わたしは知らない。
 文字を読むのはすきだし、文月さんの小説が嫌いなわけじゃない。素朴な外面の裏で激しい葛藤や執着を抱くひとたちの物語を、わたしは楽しく読んでいた。はじめから嫌いだったら、わたされたって読まない。最初はわたしだって、その話を遠いどこかの出来事として消費出来ていたのだ。
 でも、いつからか文月さんの小説に出てくる少女の言葉やふるまいに、思い当たるものがあって。
 すこしだけ、おなかの奥がつきつきして。
 贖罪なのかもしれないねと、睦月は切なげに言った。文月さんの小説について。
 ほんとうのことはなにも、わたしは知らない。
 言われたことと、みたものと。ふれたもの。それしか知りようがない。自分のこころだって、さわらなければ不鮮明で曖昧だ。
 ただ、モデル料だよ、とひきつった笑顔でささやいた文月さんの顔はひどく憐れに思えた。
 なにに追われていたら、どこへたどり着きたかったらそんな風に笑うのだろう。
 なんにせよ家と学校の図書室にある本は読みきってしまったし、時間をつぶすのに文月さんの小説はちょうどよかった。本屋で小説を立ち読みし続けるのは気まずいし、文月さんの書いた本を読めば文月さんの考えてることは大体わかる。わたしにどうなってほしいのか。どんなことばと笑顔なら、文月さんが満足するのか。
 把握して、わからないくらいの濃度で自分の表面にその少女をにじませる。
 そうすればいとも簡単に、文月さんは満足そうにする。要さんがあんな大人で、文月さんはまがいなりにもわたしにやさしい。やさしいひとにはなにかを返したい。わたしには必要な行為だった。
 並んでページをめくっていると、晩夏の風が吹いてわたしのワンピースがぶわりとはためく。瞳さんが片手で裾を押さえてくれて、「気をつけろバカ」とため息をつく。
「お兄ちゃん……」とさっきのやりとりをひきずったままつぶやくと、すぐ近くで「え、瞳ってお兄ちゃんだったの?」と驚愕に満ちた声がした。ふたりそろって顔をあげると、祐樹さんがわなわなと唇をふるわせて立っていた。その向こうで楓さんが笑いをこらえている。
 瞳さんがわたしを親指でさして、口角を軽くゆがめる。
「顔見ろ。兄妹にしたって限度があんだろ」
「は? 葵ちゃんはしぬほどかわいいが?」
「客観的な顔の出来の話してんだよ」
 仲よさそうに言い争うふたりの横を抜けてきた楓さんが、わたしの頭をひと撫でする。
「で、なんで冴木がお兄ちゃん?」
「わたしがじょうずに歩けなくて、抱えて運んでくれてるときに学校のひとに会った」
「抱えて」
 すっと瞳さんのほうをみた楓さんは、「このあとはお前が運ぶんだよ」と一蹴された。「それはいいけどさ」とわたしに向き直って、「じゃあ俺もお兄ちゃん?」と笑う。
「……楓お兄ちゃん?」
「え、ずるいずるい、俺も!」
「ゆ、祐樹お兄ちゃん」
「うわー! お兄ちゃんです! 葵ちゃん!」
「あっはは、テンション上げすぎじゃね?」
 笑う楓さんのカメラが、祐樹さんに向けられる。楓さんは毎日カメラを持っていて、写真を撮ること自体がとてもすきらしい。わたしにとっての花や星に近いけど、致命的になにかが違うのはみじかい付き合いでも察することが出来た。何枚かわたしを撮ったものも見せてくれたけど、純粋にきれいだと思った。
 その切り取られた風景の中に、わたしが時折まざっているのは幸福だった。
 三人が過ごしている日常の中で、わたしと過ごす数時間が取るに足らないものであることは考えるまでもなかった。人生はめまぐるしい。わたしだって、毎日彼らと会うことを期待してほっつき歩いてるんじゃない。世界のどこかで花が咲いている事実だけでも、わたしは幸福に生きていける。そういう自分を知っている。
 誰かと一緒にいて、それでしか得られない幸福があるなんて、ひとを弱くするだけだ。
 弱かったら生きていけない。
 食いつぶされても消えないよう、弾丸を撃てない人生でも死なないよう、わたしは星と花のことばかり考えた。いまでもそうだ。三人のことばかり考えて生きることは出来ない。
 それでも、一緒にいられたらうれしかった。
 みつけてもらうたび、自分を世界で一番幸運なこどもだと思った。
「……瞳お兄ちゃん」
 いつもの公園に行こう、と立ち上がるとき、すらりとした背中に呼びかける。「なんだよ」と振り返る顔は淡々としていたけど、冷たくも苦しくもなかった。
「さっき、ありがとう」
「別に」
 楓さんがカメラを鞄にしまって、わたしのことを軽々と抱き上げる。瞳さんのそれよりもすこし広くて硬い肩にしがみつくと、喉いっぱいにリンドウの匂いが広がる。顔がうつくしいかどうかは安心の材料にならない。わたしはリンドウの、すこしだけ苦みのあるやさしい匂いがすきだ。
 街に注ぐ陽の光は、とうに傾きはじめている。
 蝉の声はまばらで、ほっぺたのガーゼにうっすらと熱がこもっている。
 夏が終わっていく。
ほんとうに、あっという間だった。
「……お兄ちゃん」
「んー?」楓さんが穏やかに笑って、わたしをみつめる。前を見ると、瞳さんと祐樹さんも振り向いていた。わたしはなんでもないと首を振る。
 ずっとここにいたい、と思う自分の心を、奥歯で噛み殺す。
 わたしには、三人を縛る資格も権利も理由もない。
 わたしがここに縛られる必要と意味も、同じようにない。
 たまたま袖がすりあうように、出逢えた他人。互いになにか望むものがあって得たのではなく、偶然、すれ違うようにわたしをみつけてくれたひとたち。
 このひとたちのところにずっといれたら、わたしはわたしじゃないくらい幸福に生きるかもしれない。
 自分がそんな身勝手な想像を抱いていることに、胸の奥がちくんとした。