憂綴る手

 売れない小説家が最期に海を見に行く、なんてエモいもんオレは見たこと無い。大体の奴が無いだろう。同じ電車に乗り合わせた人間のうち誰が売れない小説家で、人生全部に追い詰められてて、昔妻と行った海へ向かってるとか、そんな設定がわかりやすく記載されてたら、もう少し世界中が互いに優しい。もう少しだけでも。目の前の他人を気遣える。
 高嶋永久。妹のほうの。彼女が誰にでも優しく誰にでも関心があって誰にも深入りしないのは、そういう心の千里眼みたいなもんが備わってるからかもしれない。

「おー、見えてきた見えてきた」
 窓から見える海につい声がでかくなるオレを、木暮が黙って手で諌める。「あ、悪い」と小声になりながら、イヤホンを耳に入れたままの千佳の袖を引く。
 夏は好きだけど、実は海ってそんなに行かない。行くけど、毎日じゃない。夏はどこ行っても楽しいからどこにでも行くし、そうなると海の含有率はそこまで高くない。もしかしなくても春に海行くのは初めてだ。一緒にバンドやってるベーシストのメンタルがおかしなことになってなければ、一生無かったかもしれない。
 ライカのベーシスト、榎本千佳の様子はすこぶる悪かった。お姉さんがちょっと前に入院して、今お姉さんは彼氏さん……もう旦那か。二人で旅行してるらしいけど、千佳本人は一見普通そうな顔して、ほっといたら干からびて凧みたいになるんじゃないかって感じに限界だった。お姉さんより終わってるまである。ベーシストがこんなんでは活動もままならんということで、オレとドラマーの木暮は突如海に行こう、浜辺でも歩こうと言った。――高嶋永久のアルバムが良かったから。
 気持ちが詰んでても、お笑いも漫画もドラマもしんどくても、千佳は音楽なら聞けた。千佳の場合、有効打は音楽だけだった。高嶋永久の春のアルバム、フリスビーか手裏剣みたいに出される数十枚の最新が、千佳の心にちゃんと染み込んだ。海に、行きたいと言った。オレたちはそれを叶えている。
 音楽は偉大だけど、どんな音楽も偉大なわけじゃない。自分で歌詞とか曲を書いて歌って弾いてるライカの音楽は、千佳を救わない。高嶋永久の音楽は千佳を支える。多分そこにあるのは、天才かどうかじゃない。描かれているものと、解像度の問題。オレだって小説家の曲はめちゃくちゃ良いと思った。ちょっと視野だって広がった気がする。
 千佳がイヤホンを片側だけ外して、背後の海を見る。
 歌われていた小説家が海を見た瞬間みたいに、哀しげできれいな瞳が遠い水面の輝きを映していた。
「……春でも、海は綺麗なんだね」
「ま、今日は晴れてるからな」
 木暮の言葉は愛想が無くて、歌詞には向かない。けど、ほんといつもその通りだ。

 

20220408
春波をくだく真昼 >深海線