祈りが貴方を喰い尽くす

 

「play」
「……」
「……祈る?」
「遊ぶだよバカ」

 マフラーに顔の半分を埋めた伏見ふしみは単語帳をめくり、白い息と一緒に「そうだったな! こっちは遊んでいた」と笑顔を吐き出す。受験直前の十二月とは思えない、能天気にも程があるそのさまに思わずため息が出る。そんな悠長にしてられる根拠も余裕も、一ミリもないだろ。
 真冬の刺すような空気の中、伏見の淡色の髪は電灯の光をよく反射した。空気の透明度ですら舞台演出のように思わせる完成度の容貌にはまぁ感心するが、見た目だけで受験は乗り切れないから僕も厳しい物言いを選ばざるを得ない。

「お前さ、この時期に単語帳にplayとpray入れてしかも間違えてるのはどうかと思う。どうかっていうかまずいと思うよ」
「playはよく使われる単語だろう。基本的な語彙だ」
「それを基本外とごっちゃにして間違えてるんだからだめだって言ってんの! 余計な知識入れて混乱するくらいなら脳の容量減らしてでも忘れろ。記憶から祈りを消せ」

 右手の杖を一振りして、大げさなジェスチャーを添える。伏見は「危ないぞ」と正しく僕を諌めてから、自分の単語帳を見下ろし、ふむ……となにかにしみじみしていた。だからそんな暇はねえだろって。
 少し前、僕が受験勉強というものに無縁だったから想像だけで厳しくし過ぎているのかと若干悩みかけたが、この時期になっても祈りと遊ぶを誤っているような友人にそんな心配するだけ無駄だった。しかも伏見の場合リスニングはやたらと出来るので、近い響きの単語なんて網羅しておく必要ないのだ。まさしく、本当に、余計な行いである。
 伏見は顔を上げ、呆れて脱力しながらもうっすらと不満をまぶした僕の顔を見る。

あおぐは祈りに手厳しいな……」
 真面目な表情を崩さずそんなことを言われて、肩をすくめる。
「お前の単語帳の中身に手厳しいんだよ」
 ほら、行くよ。
 杖の先をカン、と鳴らして促すと、伏見はすっきりと背筋を伸ばして歩き始める。僕が言い出しても、足を動かせば圧倒的に伏見のほうが速い。ずるずると左脚を引きずる僕を伏見は気遣い、「持つぞ」と鞄を合法的にひったくろうと手を差し出された。「いいから単語を頭に入れろ」と一蹴する。
 すげなく断られたのを微妙に惜しみながら、伏見は気を取り直して単語帳をめくり始める。
「deserveは……値する、premise……約束? あ、違う、前提か」
「……」心の中で信じてもいない神に祈る。
 信じてないっていうか、僕は限定的無神論者なのだが。
 初詣は明治時代なり浅草寺なり鶴岡八幡宮なり、どこでもいいが必ず行って、合格祈願のお守りを買ってやろうと誓った。よその神には礼儀正しくあやかりたい姿勢を見せる主義だ。
「prey」
 聞き慣れた声が、先程の祈りと同じ発音をなぞる。
「……餌食」
 やはり、先程と同じような意味の言葉が、迷いなく聞こえた。それは暗記しているらしい。
 試験に出ればいいけどな。

「では、また明日な!」
 伏見の受験勉強を改めて案じた、数十分後。
 駅のホームに降り立ったそいつが、単語帳を持った左手を大きく振り上げて笑う。拡声器を通したような張りのある大声に肩をすくめながら、僕は「はいはい、また明日ね」と答える。伏見は今日の夕飯が大好物によるパレードなのか、手とマフラーの裾だけでうるせえなと思わせる、微笑ましい騒々しさをまといながら改札へ向かう。実際好物の有無とか無関係に、常時あの調子なので、一緒にいると退屈しなくていい。
 電車の扉が閉まっていく。
 自宅の最寄りまで、残り二駅。何かをするにはあまりにも短い。僕は目を閉じて、僅かな時間だが瞑想する。
 僕の生活に、本当の意味での自由は限りなく少ない。
 息苦しいような、不愉快なような我が家を想像すると、毎日それなりに気が重い。友達という僕が自発的に構築した自由意思の人間関係と違って、家にいるのは家族とかいう偶然の産物による他人だ。
 家族大好きファミリーコンプレックスの真反対を突き進んでいる思春期反抗期男子高校生には、自宅という牢獄への帰還はほとんど死出の旅だ。
 ……物心ついたときからずっと、反抗期だけど。

 僕は生まれて七日目、仰という名を賜った。
 格式と信教を大変に重んじる金持ちの家で。
 要するにボンボンの高校生だ。
 いちいち説明するまでもなく、大体の他人から僕はこのように認識されている。通っているのは幼稚園から大学まであるまぁお上品な一貫校の高等部で、金持ちのお約束よろしくそこは僕の家、というか家系が運営している。財閥という言葉をネットで検索したとき、『是枝これえだ』という名字は歴史のどこにも引っかからないが、やってることはそう変わらない。戦前より陰の金持ち一族としてあれこれ手を出していたとかで、系列の学校も病院もあり、不動産も工業も化学もあり、勿論銀行もあり、一覧表を書くのは断じて避けたい。腱鞘炎になる。
 みんながみんな自社企業に務めるのかと言うと、そうでもなく議員なり警察なりお役所の人なり、日本中のあちこちで僕の親族は毎日ご苦労に働きまわっている。権力のプレパラートを並べることが一族の趣味なのだろう。
 そのへんは全てこの家に生まれたことを誇りに思う気高き分家のみなさんが行っていて、一方の本家はストレートに土地をしこたま持ち、不労所得の夢物語と、付け合わせにしてはプラマイが負の基準を突き抜け過ぎな面倒事を一子相伝している。分家は本家に絶対服従であり、個人的には時代錯誤で嫌だなと思う。
 僕自身は日本の首都に住まう普通に現代の若者であり、努力と友情を重んじるジャンプ漫画の伝統に寄り添った性格で、金に任せて他人をいじめたことはないし、かと言って卑屈に謙虚でもない。勉強も運動も困ったことはないし、挫折という文字のない人生を歩んできた。とは言え、自分で思う自分の特別さはその運の良さくらいで、あとは取り立てたところのない人間だととらえている。
 そんな僕が生まれ持った魂は、どうにも親族達と折り合いの悪いものだった。どうがんばっても埋めようのないクレバスのような断絶が、生まれつき存在していた。
 居心地が悪いのは、それで冷遇をしてくれるようなまともな家じゃなかったからだ。

 僕の自宅はおそらく都内でも指折りの豪邸に入る。単純に事実なのだが、土地も高けりゃ税金も高い首都に構える邸宅としては、あまりに贅沢すぎる敷地の使い方をした広大な家だった。さすがに渋谷区や新宿区のど真ん中に構えていることはないにしろ、売れば幾らになるのか調べたとき、僕の存命中に売買しようと決意させる程度の張り合いがある。
 一族に遺伝した人見知りの精神性によって塀の内側を見せびらかすことはないが、ドッグランに貸し出してもなお余りそうな敷地には明治以前から建っている割に増改築の甲斐あって見栄えのする切妻屋根の家屋と、手入れの行き届いたご立派な庭園、人が住めるくらいの蔵が複数、家人を送り迎えするための車たち、それほど小さくはない鳥居と社まである。社はこの家が代々崇めている氏神のものだ。
 この家と社だけでも十分手に余ってるけど、東北のほうにある総本山も兼ねた本家の本邸はもっと規模が広くて、冗談みたいな逸話と場所がごろごろ転がっている。僕からすれば開放的な座敷牢みたいな自宅でも、邸宅の裏に奇怪な儀式をするための山とか、その山の中に気色悪い儀式殿とか、それが建ってる市区町村まるごとが自分の家とか、笑顔も凍るネタが張り付いてないだけマシだろう。
 つまらない成金なだけの家系ならどれだけ笑えたか。
 一家ご自慢の縦横に長い家系図は、僕にとって禍々しい呪詛の記された巻物に見える。
 今も続く神の家系だ(自分たちで続かせてるんだろうがと思うけど)、ということを僕の家の大体皆さんは誇りに思っていて、神様に恥じぬよう生きて、神様に恥じぬよう働いて、神様に恥じぬよう死ぬ。この時代に、生身の人間相手に、本気でそんなことをやってのけているのだから気味が悪い。

 延々と続く、冥途にも似た漆喰と瓦の塀に沿って、暗い歩道を歩く。これほどバカの面積を誇っても尚最寄り駅から十分程の距離で済んでいるのは、あらゆる場所に潜んでいる我が一族の権力の賜物かもしれない。冗談にしたって悪趣味だな。
 家の正門はそれなりに広い道路に面しているのもあって、街灯の数も多く、車通りもそこそこにある。僕が不可抗力の事情で足を壊しても駅からの迎えを断っていられるのは、人工的な明かりの多さを根拠にした、自宅付近の治安の良さもある。
 ようやく門に着く。航空写真で見れば、白と黒の塀のど真ん中に格式張った木製の門が構えているのがわかるだろう。薬医門のつくりをしたその入口は、向かって右側に人間サイズの扉がある。数年前のリフォーム以降は鍵以外にも指紋認証で出入り可能になった。便利に越したことはないが、僕は疑り深いので絶対に鍵も持ち歩くようにしている。
 門から十メートルも歩けば母屋に着き、門と同じ施錠方法の引き戸をいつも通り開ける。
 ただいまー、なんて気安い会話は僕の日常に存在しない。

「……あー、どうもご苦労さま」

 家に入った瞬間から、玄関に面した広間にずらっと並んだ人間の視線が僕を針山にする。
 その内訳はほとんどが使用人で、およそ二名だけが僕の血縁とされている。つまり父母だ。ぴかぴかに照らされた眩しい室内とは反対に、僕は暗澹たる気分で視線をすぼめる。
 僕の帰宅は毎日こんな調子で迎えられる。お帰りなさいの一言もなく誰もが黙して突っ立っているのに、誰も僕を排斥しようってんじゃないんだから気持ち悪さも七割増しだ。前に伏見をはじめとする友達数人を招いて勉強会をしたときは「毎日授業参観」「反逆した構成員を迎える反社会的組織のアジト」「礼拝堂のキリスト像視点」とか散々な言われようだった。最後のが一番近似なのも散々の上乗せ。
 靴を脱ぎ、いつもの位置に揃えて、人間を複数しまえそうなサイズの下駄箱に杖をかける。その横にある室内用の杖を持って、マフラーとコートを脱ぎ、広間のラグマットに立つ。
 この間全員無言。
 口下手しかいねえのかよ。
「全員暇なの? 僕はお前らの顔を見て時間を浪費する程暇じゃないんだけど」
 僕がため息まじりに杖を振ると、使用人は口々に申し訳ございませんと頭を下げ、散り散りになる。僕がこの空間でまともに信用する人間は二人しかいないが、二人は当然のように調理なり掃除なりの務めを果たしているだろう。霧散した誰もが僕にとってはいてもいなくても変わらない存在だ。
 父母は最後まで残り、不満を隠さない僕の顔をじっと見つめていた。感情を受け取れるほどの表情も発言も皆無で、あれは父母だと認識しているだけで実は地縛霊ですね、と言われたほうが納得いく風情だ。

「……何? お前らの子供は見世物じゃないよ」

 忌々しげに吐き捨てると、父がまず目を逸らす。線が細く蒼白い顔立ちは一族の血縁を感じさせる揃いのもので、僕とは似ても似つかない。一見すると権力と金には縁遠く、意思も生命線も希薄な雰囲気を漂わせているが、こいつがこの一族における最高点を一応担っている。一応ね。渋々ながらも念入りに添えておこう。顔立ち以外も全身の輪郭線が非常に頼りなく、消毒液の匂いがしないことを不自然に感じるほどいつも具合が悪そうなので、本当に死にそうなときにも区別がつかなくて死に目には会えないと思う。そうであってほしい。
 母も母で、父の態度を見て同じように目を逸らす。毎度ながら会話も成り立たない。僕は一体何と暮らしているのか。本当に相手は人間なのか。どんな爆弾発言でもいいから口を開いてみせろと思うし、何も言わなくていいからそも視界に入るなと思う。思いの比重は後者かな。
 痛みそうになるこめかみを押さえながら、「夕食はすぐ持ってきていい。伝えておいて」と言い残し、僕は早々に自分の部屋へ向かう。時間と労力の無駄だ。

 杖をつきながら、右の通路へ舵をきり、三部屋分の襖を通り過ぎてから左折すると、長々と広い廊下がのびている。高校の校舎の廊下が大体同じくらいかな、と誇張抜きに言える通路の果てには、ゴマかゴミのようなサイズの点が見える。
 修行僧と掃除好きの人に貸し出したら大層喜ばれそう、と伏見たち友人勢に評された廊下の先にあるのは、僕が向かっているので当然僕の部屋だ。部屋というか室内続きの離れに近いのだが、家の間取り図を出す際には一室に数えなければならないだろう。
 僕はこの家が蛇より虫より鬼よりも嫌いなので、思春期が到来するずっと前から、家にいるときは自室にこもりきった子供だった。
 そしてそれを、僕が望むより先に、家の人間からも望まれていた。
 嫌悪や忌避ではなく、敬仰と尊重の意味合いで。
 まったくもって唾棄すべきだ。

 三歳の頃には自室で一人就寝をしており、それまでも専用の部屋で寝ずの見張り番を使用人が交代しながら請け負い、僕には原則触れなかったという。万一その頃の記憶があったらネグレクトで然るべき場所に訴えられたのにな。
 廊下の脇には左右共に四部屋分の襖と主に使用人用のトイレがあるが、以降は扉まで延々と、腰高窓が設置された壁だけが続く。家の中にもうひとつ家があるような仕組みは僕の希望でなく一族の希望によるものだが、家というより明るい牢獄だ。どれだけ深夜でも使用人の数名は起きているので電灯は光っているが、もう少し想像力の豊かな子供だったらこんな部屋をあてがわれるのは御免被っただろう。
 部屋の扉には六桁の数字を入力する電子ロックキーがかかっている。これも僕の希望ではない。そうまでして僕を家の最奥に封印したがるのは、親族の誰もが「是枝仰に下手なものが触れてほしくない」という腐った思い入れを持つからだ。随分ナマモノな家宝を持つものだと皮肉も言いたくなる。

 暗い室内に入って内鍵もかけて、ようやく一息つく。
 部屋の中でも誰かが待ち受けていることはさすがにない。電気をつけて入口近くにコートとマフラーをかけ、鞄を置く。ベッドは朝起きて自分で整えた状態、机も出かける前に勉強したときのままだ。世の中の裕福なご子息ご令嬢たちがどんな生活をしているのか僕は知らないが、自分の毎日が少しいびつなのはさすがにわかっている。

 限界まで潔癖に配慮された、僕という人間の隔離。
 自分達の神様に汚れて欲しくない、と、愚かしくも願われている。
 生まれた土地は代々特定の氏神を祀っている地域で、その氏神は『今も生きている当主』のことだった。
 つまり生きている人間が御神体である。
 この現代に平然と生祠を繰り返している。
 信教の自由は法律で定められているが、だからと言って生まれた子供を神様にしようなんてふざけている。
 僕は存命中の当主を神様として祀り上げる家の生まれで、その中でも極めて特別製の神様になる予定で、というか実質的にはほとんどそうなっている。僕が物心ついた頃にはこの状況のすべてが完成していて、父親や祖父の生育環境はここまで厳戒体制ではなかった。全然うれしくない『特別』だ。
 僕を人間として扱う身内も、いるにはいた。民俗学者である遠縁の叔父がいい例で、土着の儀礼や信仰に詳しい彼は自分の家の信教に染まっていなかった。住まいに遊びに来る幼い僕を、しょうがない子供として尊重してくれていたように思う。お陰で僕は神社仏閣巡りが趣味だ。
 だけど出る杭が打たれるように正直者が馬鹿を見るように、彼は死んでしまった。

『そういうこと』がこの家には多すぎる。

 安心はない。どこにもない。不安に思うほど浅慮でもないだけだ。
 ずっとおかしい。

 ずっとおかしいまま生きて、もうすぐ僕は十八歳になる。

20231030
花に嵐/あとのまつり