この話には激しい暴力・虐待描写が含まれます。
人によってはフラッシュバックの恐れがありますので、十分ご注意の上お読みください。
意識を失う直前、失敗したんだ、と思った。
目を開けて最初に、同じことを考えた。
数瞬、数分。もしかしたら数十分かはわからないけれど、床に突っ伏していたわたしは目を覚ます。ごり、と自分の頭蓋骨がフローリングの上をにぶく転がる。どんな場所でも寝れると自負出来る経験が、こんなところでもいきてしまうなんて。
起きあがろうと手をつくと、てのひらも床もやたらとべたついて錆臭い。霞がかった視界も一面赤黒い。自分の血がペンキの缶をひっくり返したように一帯をよごしていることに気づいて、驚き半分感心半分に「わぁ」とまぬけな声をあげる。
こんなに血がでても、生きてるものなんだ。
失血死というのはよく聞くけれど、専門知識などあるはずもないこどものわたしでは、どれくらいが生死のボーダーラインなのかはわからない。手をついてよっこいせ、と身体を起こすと、多少めまいがした。正しく血の気がひいている、というか血の気が失われている感覚なのだろう。不快にべたつくけれど床の血は乾ききっていないから、雑巾があれば掃除は可能そうだ。
よろめきつつも立ち上がって、廊下に続く扉を開け、洗面所の収納に雑巾をとりにいく。わたしが倒れていたのはダイニングで、家には誰もいない。しんとした静けさと、なんの花も匂わない空間が安全を証明する。二十歩ほどの距離をのんびり歩いてもかまわない。
「……おぉー?」
洗面所の鏡に映った自分をみたとき、思わず首をひねった。右半分がスプラッタ映画に使うマネキンみたいにまっかだ。頭から流れた血が重力に従って顔や服をよごして、お世辞にも健康的な見た目ではなかった。
自分だとわかってるから、グロテスクさは希薄だ。
洗面台に取り付けてあるティッシュを三枚とって、まず顔の血をふきとる。固まった前髪でみえないけど額にある傷が源泉らしく、とりあえずマキロンをかけたガーゼを用意して、片手であてながら雑巾をさがす。
「使い古しがあれば……どうせ捨てちゃうし……」
洗面台の下にもぐりこんでバケツや雑巾を漁るあいだも、ぐらぐらと視界が揺れて息がきれる。べったりした汗が額に浮かぶのを手の甲でぬぐう。
ひどい見目の通り、あまりよくはない怪我をしているだろうから、かたづけが終わったら病院にいこう。
痛くはないけど。
いままでずっとそうだったように、痛みはなかった。
人体としてはおかしくとも、わたしはこれで助かってきた。こうなったら、きっとこのあとも助かってしまうのだろうな、と思うとすこしやるせない。
うまくやれなかったと、考えてしまうから。
しかたなくぴかぴかの白い雑巾をだして、あまり出番のないバケツもだして、水をはってダイニングに戻る。
家の中は冷たいくらいに静かで、暖房の音だけがさみしく空気を揺らしている。
誰かが帰ってくるまでに終わらせよう。
雑巾を水に浸して、ワンピースの袖をまくった。
一年半前、わたしは三橋葵になった。
小学五年生の夏休み、おかあさんが再婚するひとにひきとられて名字が変わった。それまでは是枝葵と名乗っていて、実はその前にも別の名字があったらしくて、結局どれもしっくりくる前に移ろっている。今度はちゃんと自分の名前に馴染みたいな、というのがまず正直なところだ。
もともとおかあさんと一緒に暮らしていたわけではなく、わたしの家族関係はちょっとめんどくさい感じにこじれていた。実の父にあたるひとはわたしのことをワニワニパニックと勘違いしているんじゃないかというくらい景気よく殴り飛ばすこどもみたいな男で、その暴力性は全世界平等かつわたしが最も軽度という笑えない感じだった。必然的に、前の家ではわたしが父――要さんのお目付け役のようになる。要さんの弟である叔父二人も一緒に暮らしていたけど、そんな怪物が生まれてしまうのも納得いくくらい、家の中は絶えずいびつに張りつめていた。そういう家で十年ちょっとを過ごした。
小学四年生の夏から一年間は、胸を張って幸せだったと言える。要さんの暴力はちっともゆるまず続いていたけど、わたしは近くの高校に通う高校生三人と知り合った。わたしはそれぞれ花の匂いがする三人のことをお兄ちゃんと呼んで、他愛ないことをたくさんした。わたしにとって花束のような一年だった。
三人と別れた理由は単純明快に至極当然。この家に引き取られて、住まいが変わったのだ。
もちろん恨んでなんかいない。
一緒に暮らしていなかったおかあさんは、わたしの知らないところで養父になるひとと知り合い、わたしの知らないところでわたしを連れていくことに決め、わたしは人生の死角から現れたおかあさんに手をひかれて、いまに至る。いろんなことがそうであるように、こどもであるわたしに拒否権はなかった。
むしろ、要さんからの暴力はなくなった。食事もふつうのものが用意されるようになった。慣れなくてそわつくほどの平凡さを、わたしは与えてもらった。感謝しなければならない。
養父になった男のひとはおかあさんに随分首ったけで、おかあさんに手を引かれてお兄ちゃんたちとお別れした日も、すこし歩いたところで彼はわたしたちを待っていた。それはわたしへの挨拶や心配でなく、おかあさんへの過保護さによるものだとすぐに察しがついた。おかあさんに手を引かれているわたしを見下ろして、ほんの一瞬だけ眉を寄せてから、「葵ちゃんかな?」と話しかけられた。うなずきながら、わたしはおかあさんに似てないもんなあと納得していた。
おかあさんは濡れ続けたサンカヨウのような匂いがする、なんともうつくしい容貌の女性だ。もちろん人の容姿は好き好きだし、単にうつくしさを比べるだけなら、一緒にいたお兄ちゃんのうちひとりのほうが若干勝ると思う。とはいえ、おかあさんはひとのこころにするっと滑り込む冷たい水のような、儚い花びらのような、白い毒のような美人だった。
ちなみに要さんもおかあさんとなかなか拮抗するレベルの美人で、百日紅の匂いがする。わたしはどちらにも似ていない。血縁を疑っても誰も責めないだろうというくらい、ありとあらゆるパーツの構造が重ならない。養父にあたるひとがわたしの顔をみて眉をひそめたのは、「父親にも似ていない」という意味もあったのかもと思う。
連れて行かれた家には二歳下の男の子がいて、渚、と名乗ったその子はフリージアの匂いがした。わたしはいたって見どころのないふつうのこどもだけど、花が好きで、ひとに花の匂いを感じることがある。それはわたしの感覚に基づくもので、実際の匂いや雰囲気とはちょっと差異があるけど、それを感じるときのわたしは大抵相手に好意的な印象を持っている。お父さんと呼ぶことになるひとは、ウツギの匂いがした。
渚はごくふつうに活発で、大抵学校から帰ったらまたすぐに出て、友達と遊び回ってくる。反面お父さんの家事の手伝いも進んで行っていて、しっかりした子だった。最初はわたしともおそるおそるやりとりしてたけど、すぐに必要以上の会話をしてくれるようになった。懐かれていたと思う。
「おれのお母さん、からだ弱くて死んじゃったんだけど、やさしかったんだ」
「そうなんだ」
「葵はちょっと似てる。あ、死にそうって意味じゃなくてな! 死ぬなよ!」
「あはは。うん、わかるよ」
渚はおかあさんのことをどうにも苦手に感じていたようだけど、自分の父の幸福を願っていたし、わたしとは仲よくしてくれた。わたしも両親のことは当然として、初めて出来た弟である男の子の幸せを願っていた。
結婚した男女と、連れ子同士の姉弟の四人。おもしろいことはないけどあたたかいことはある、不満を抱くような箇所はない、ごくふつうの一年半を過ごした。なんらおかしいことはなかった。
◇
小学六年生も終盤。
二月に入って、なかばを過ぎた頃。
わたしが中学の制服の採寸を終えた数日後の土曜、おかあさんが突然「散歩に行くわ」と立ち上がった。お父さんは渚を連れて夕飯の買い物に出ていて、わたしとおかあさんだけが黙っておなじ空間にいた。
「いまから?」
驚いてたずねると、おかあさんはふしぎそうに「そうだよ?」と聞き返してくる。その間にもおぼつかない手つきでコートをとって羽織り出していて、わたしはあわてて自分の上着を手にとった。
おやつの時間もとっくに過ぎて、これから暗くなるばかりだというのに、ひとりでどこかへいくなんてあぶない。
そう思って動くくらいには、おかあさんの危うさや幼さを知り始めていた。ほっぽりだしたら簡単に死んでしまうような、どうしておとなになれたのか疑問に思う桁違いの弱さと脆さを誇るひとだ。うつくしいぶんだけ、人間としての強さを削がれてしまったような。赤ちゃんだと思って接するくらいじゃないといけない。
わたしが家の鍵とお財布をとりにいってポケットにつめこんでから玄関にいっても、おかあさんはまだ靴のボタンを留めようとしていた。不器用でなんでもゆっくりなのに、おかあさんはシンプルな靴をほとんど持っていない。いつもはお父さんが足元のお世話をしていて、傅いているみたいですこし怖い。けど、あんまりにもたもたとボタンひとつに時間がかかっているのをみてると、妥当な判断なのかもしれないと思ってしまう。
このまま放置していたら家を出た瞬間真っ暗闇だ。しかたなくおかあさんの靴のボタンを留めてあげると、おかあさんはわたしが靴を履くのを待たずにさっさとドアを開けてしまう。なんだか、めずらしく、急いでいるようだった。
「おかあさん、待って……」
続いて出ようとしたわたしの顔面に、おかあさんが後ろ手で放った扉が直撃する。目の前がばっと赤くなったように熱く、ちかちかするけど、鼻のあたりを擦っても血が出ている感じはない。よかった。
鍵をかけてドアノブを一回さげてから、おかあさんを追いかける。
「おかあさん、どこかいきたいの?」
小走りで追いついてそうたずねても、おかあさんは答えなかった。
散歩という言葉はどこへ霧散したのか、おかあさんはちいさく揺れるように歩きながらも迷わずバスに乗り、電車に乗り、各駅で二つ進んだ駅で降りた。毎度なにも言わずなにもせずに通り過ぎようとするので、わたしは冷や冷やしながらおかあさんの分も一緒に払った。
バスの運転手さんはわたしが急いで財布をとり出すのをみて、背中を向けて歩き出しているおかあさんに「おい、待ちなさいよ」と声をかけた。おかあさんは一瞬も止まらなくて、ふつうのひとからすれば大層不自然にみえただろう。
ごめんなさい、すみません、とわたしが頭を下げるのを「お嬢ちゃんに言ってるんじゃないんだよ」と宥めてくれた。おかあさんを追いかけないといけなかったから、お礼はちゃんと言えなかった。駅は切符を買わないと改札を通れないからまだよかった。
二つ進んだ駅は、わたしのよく知った土地である。ほんの一年半前までは、ここが家から最寄りの駅だった。違う路線との乗り換えも出来るちょっとおおきい駅なので、ひとも多いし、みんな急いでる。おかあさんはすれ違うひととちょいちょいぶつかりながら、謝ることもなく止まることもなく、なにかを一心に目指して歩いていた。
なにか買いたいものがあるのかな。
もうそろそろお父さんの誕生日だ、とわたしは思いあたる。いまの家の最寄り駅前は普段の生活ならまったく困らないけど、おしゃれなプレゼントを探すならちょっと遠出が必要だ。ひとがひしめきながら動き続ける程度、この駅前は栄えている。つい先週、渚と一緒にお父さんの誕生日プレゼントを買おうとこの駅に降り立ったばかりだったので、わたしにとっては真新しい記憶の場所だ。
おかあさんは駅ビルが立ち並ぶほうの出口ではなく、商店街に面しているほうの出口に向かう。そのとき怪訝に思って帰ろうと促していればよかったのに、おかあさんを追いかけている最中、駅前の花屋がつい目に留まってしまった。
気持ちがせりあがって、すこしだけ切なくなる。
あざやかな花をたくさん並べたこの店先で、よくお兄ちゃんたちと会っていた。偶然にしろ意図があったにしろ、ここには大切な思い出がある。特別な思い入れにほんの一、二秒浸って、すぐに首を振る。おかあさんを駆け足で追いかける。
駅ビルが乱立して堅固な華やかさを誇っているほうを駅前の表とするなら、わたしたちが向かった出口は裏手側だ。商店街を突っ切るように進むと、すぐに閑静な住宅街に入る。ひとの層が一気に薄くなって、わたしにとってはよく知った景色に移り変わる。このときにはもう、いやな予感が胸を埋めつくしていた。
「おかあさん、散歩じゃないの?」
わたしの呼びかけに、やっぱりおかあさんはけして答えない。うつろな横顔は人間の視野をほとんど捨ててしまったみたいに静かで、だけど足取りはしっかりしている。
「おかあさん……」
夕時のあかい光が、建ち並ぶ家の屋根を染めている。冬の風がびゅう、と吹きつけると、遠慮のない北風の冷たさにおかあさんはすこしだけ歩調をゆるめた。
目の前にのびるアスファルトには、植えこみの椿がぼたぼたと落ちている。あまりにも見慣れた灰色の塀の角を認めて、いてもたってもいられなくなった。
これ以上はだめ。
あの角を曲がったらみえてしまう。
おかあさんが向かっているのは、鬼門だ。
「おかあさん、戻ろう。だめだよ」
迷いなく進むその腕を強くひくと、おかあさんはふしぎそうに振り返った。わたしの存在を忘れていたみたいに、どうしてここにこんなものがいるのかと言わんばかりに、わたしを見下ろしている。
「……探しものがあるの。行かなくちゃ」
ようやくわたしに向かって、一言を発する。言い訳にしたってあまりにもおそまつな内容だけど、それよりも自分に向けられた暗い視線のほうが気になった。
そのまなざしには憶えがある。
……おなじだ。
唾を飲み、おかあさんの腕をしっかりと掴みながら、わたしは笑った。なるべく自然に。なるべくやさしく。
「おかあさん、帰ろう。ね。もう暗くなっちゃうから。おかあさんのさがしものはみつからないと思う。転んだりしたらあぶないよ。また今度さがそう? わたしもてつだうから」
「……あなた、」
「お父さん、きっとごはんつくって待ってるよ。帰ろう」
わたしの言葉は半分も届いていないのだろう。おかあさんは心ここにあらずの表情のまま、先程まで向かっていた住宅街の角を一瞥して、必死に自分の腕を掴むわたしを再度見下ろす。
その目に感情はなかった。
ゆらり、と暗い火が揺れて。
ぱちん、
羽虫が勢いよくアタックしてきたような、自分の頬から聴こえた音にびっくりして、一瞬手を離しそうになった。わたしの力がゆるんだのを感じたらしいおかあさんが勢いよく腕を動かして、わたしを振り落とそうとする。細い腕が顔や喉にぶつかって、痛くはないけど苦しさはあった。ちょっとだけ吐きそうになる。
それでも絶対に手を離さなかった。
おかあさんはまとわりつく生き物が自分のなんだったのか完全に抜け落ちた様子で、普段の静かな姿が嘘のように瞳を燃やしてわたしの前髪を掴む。要さんと違って全然力がないから、寝癖を直すにも足りないくらいしか引っ張られないんだけど。
そこでようやく、さっきのぱちんはおかあさんがわたしを叩いた音か、と気づく。
落ち込みはしなかったけど、意外でもなかったけど、おかあさんがわたしの想定の十倍は非力で、心配になった。こんな力で要さんに会ったらこなごなになるまで殴られてしまう。抵抗するにも宥めるにも、最低限必要なラインがある。
細い腕にしがみつくようにして、困惑顔のおかあさんを見上げる。ささやかに揺れる長い髪越しにみえる空は、なにかに急かされるように暗くなっていく。要さんはもう家にいるだろう。夜道を歩くのがへたなひとだから。
「どうして?」
落ちてきた声は透明だった。
「どうして、邪魔をするの」
おかあさんがわたしの前髪を離して、ぱちん、と頬を叩いてくる。わたしじゃなくても痛みを感じることはなさそうな、ひどく儚い暴力だ。相手がこうすれば離れてくれるんじゃないかという、赤子が手足をばたつかせるような弱々しさ。
「ねぇ、離して。こんなところにいられないの。離して?」
おかあさんは困ったように眉を寄せて、ぱちん、ぱちん、とわたしの頬を両手で叩く。交互に左右の頬をぶたれているのに、まったく皮膚が熱いとかはない。強いて言うならかゆい。これが要さんだったら翌日おたふくコース直行だった。
しばらく黙って叩かれていると、暴力の受け皿になっているのはわたしなのに、おかあさんだけが泣き出した。慣れないことをしたせいなのか、両手を震わせながら「いたい」と呟いて猫背になると、急激に暴力の気配が消えて、焦点のあわない瞳からぽろっと水晶みたいな雫が落ちた。
「ひどい……」
なにが酷いの。
思っても言わない。
わかっても考えない。
わたしはぼさついた前髪を片手で簡単にととのえると、おかあさんの声を無視して「帰ろう」と腕を引いた。どれだけ声をつくったって無駄でも、極力穏やかに呼びかける。両手が痛いせいか目的を果たせなかったせいか、ほろほろ泣き続けるおかあさんはすっかりおとなしく、わたしに引っ張られるまま歩き出す。
さっき歩いてきたばかりの住宅街はとっぷりと暗い。腕を引っ張るのに疲れてわたしが手を離すと、どんどん濃くなる夜の色に怯えたのか、おかあさんのほうからわたしの服の袖を握ってきた。
……ちいさなこどもみたい。
きっと、おかあさんはわたしに怒って手をあげたことを忘れてるか、忘れてなくてもどうでもよくなってる。おかあさんはそのときその場で自分を守ってくれそうなものにしがみついて、自分の叶えたい願いがあれば押し通そうとする。それだけなのだ。それはそれで、ごくありふれた人間の形だ。
そんなひとがわざわざわたしをひきとった理由はわからない。
ただ、多分誰かが理解して納得出来るような説明はつかないのだろう。
愛情でも、ない、んだろう。
背後から、わたしの袖を握るおかあさんの声が聞こえる。
「歩くの、はやい」
「帰ったらごはんかな」
「……ねぇ、聴こえている? 返事して」
随分心細そうな声なので、わたしは表情を変えずに「きこえてるよ」と返す。おかあさんがわたしの声をきかなくても、わたしはおかあさんの声をきいてる。どれだけのことをおかあさんが忘れても、わたしがずっと憶えている。
それでいいんだと思う。
それでなにかがおさまるなら、構わないと思う。
いままでだってずっと、そうだったんだから。
おかあさんの「いじわるしないで」という声は、きこえない振りをした。
家に帰るとお父さんと渚が焦った様子でわたしたちを迎えた。涙の乾ききったおかあさんはしれっと「散歩に行ってたの」と嘘をついて、お父さんは多少怪訝そうにしつつも、わたしがなにも言わないので信じることにしたらしい。渚はわたしの頬をみて「大丈夫なのかよ」とたずねてきたけど、うまい返事が浮かばなくて、わたしは曖昧に笑うだけだった。
あのときちゃんと話しておけばよかった。
思っても後の祭りだ。
それから一週間、注意深くおかあさんを見守った。変わらずにぼんやりと悲しげな顔をしているおかあさんは、お父さんに靴を履かされて手をひかれてごはんも着替えも歯みがきもゆっくりだった。平日の昼間、わたしや渚がいない時間に暴挙に出ないのだからだいじょうぶそうだと、金曜日の夜ようやく胸をなでおろした。
わたしは浅はかだった。
破滅的に、馬鹿だった。おかあさんのことを全然、わかってなんかいなかった。
次の土曜日。
お父さんの誕生日を二日後に控えた、昼下がり。
おかあさんは誰も起きていないくらいの朝から、どこかにふらっと出かけていた。
そして、酷い暴力の痕をつけた姿で帰ってきた。
「翼さん!」
お父さんが悲鳴のようにおかあさんを呼ぶ。自分の身体が八つ裂きにされたような声だった。渚は友達と遊びに行っていて、家にはお父さんとわたししかいなかった。
なによりもまず、渚にみせなくてよかったと思うほど、おかあさんは酷い有り様だった。きれいな顔は見る影もなく殴打され、上着にはどうみたって靴底の痕がある。花のように整った鼻筋は潰れているのを心配するほど腫れていて、赤黒い蕾(つぼみ)のように顔のあちこちで血が固まっている。こんな姿でよく誰にも捕まらず帰ってこれたと、感心するほどだ。
――いったんだ。
その原因があまりにも簡単に思い浮かんで、わたしは呆然としていた。この時点でも、自分の行動すべてが徒労だったと思うには十分過ぎる。悲しみでも怒りでもないものが、身体の内側に淡々と積もっていく。
わたしがおかあさんの様子に絶句しているのを、お父さんはショックを受けていると捉えたらしい。必要最低限のものをひったくるように掴んで、「病院に行ってくる」とおかあさんの肩を抱き、驚くほど素早く出ていった。残されたわたしはしばらく呆然と立ち尽くしていたけど、冷えた玄関にいてもどうしようもないのでダイニングに戻って、お父さんが用意したごはんにラップをかけて、椅子に座って帰りを待つ。読書をする気分にも、ひとりでごはんを食べる気にも到底なれない。壁にかけた時計の秒針がカチカチと音をたてることすら、いまは慰めだ。
お父さんに言うべきだったかもしれない、というたらればで目の前が埋まる。おかあさんのことを盲信しそうな勢いで愛しているひとに、あの日のおかあさんの行先を伝えるのはどうしてもためらわれた。その開示がお父さんの心を深く傷つけるという想像が、わたしの口を開けさせなかった。身近なやさしい他人を、裏切るように感じてしまった。
それがほんとうの意味で正しい、やさしさではなくとも。
取り繕ってくれるだけでよかった。
うれしかった。
目先の平穏のためについた白い嘘が、いとも簡単に瓦解するのを、何度も何度もみてきたはずなのに。
考え込んでいる間も、秒針は無機質に時間を刻む。
不意に扉の開閉音がして、はっと顔を上げる。時計をみると三時間ほどが過ぎていた。玄関からきこえてくる足音はどことなく緊張感があって、お父さんだろうと予測しながら立ち上がる。
玄関から続く廊下とダイニングを隔てる扉のノブが下がる。
なんの考えもなく駆け寄って、
「おかえりなさい!」
明るくも暗くもない、おおきくもちいさくもない声でかけた言葉が、多分引き金になった。
こちらに向かって開く扉から、泥と血と黴をぐずぐずに煮込んでさらに腐らせたような、濁った視線が覗く。
――あ、
間違えたんだ。
気づいたときには遅く、姿を現したお父さんがわたしの頭目掛けて右手を振り下ろした。おかあさんの暴力とは比べものにならない、ひさしぶりの脳が揺れる感覚によろめく。衝撃に数歩後ずさりしながらも転ばぬようふんばって、往生際悪くお父さんを見上げると、真っ青な顔と目があう。わたしの目をみたお父さんの瞳孔が、恐怖のような感情で砕け散る。人間の常識が通用しない超常的な化物と対峙しているように、ぶるぶると震え怯えている。心だけじゃなく身体の具合も最悪そうだった。
「……お父さん?」
ごく当然に心配になって、声をかける。
瞬間、再びの殴打が降ってきた。今度は三発続けざまに。顔と身体にクレーターがあいたと思うほどの力だった。
それでも床に崩れ落ちなかったのは要さんよりお父さんの力が弱いのではなく、わたしがこの一年半で多少成長して、ほんのちょっと丈夫になったからだろう。わたしは自分の成長を、生まれてはじめてうれしく思った。それと同時に、こんな風に実の父とこの養父を比べなければいけなくなったことがさみしい。
「どうしてお前なんかが生きてるんだ」
お父さんの絶叫が、びりびりと皮膚に響く。「お前がいるから」「あいつがいるから」わたしとの会話をするつもりで発言しているのではなく、あらゆるやり取りのすべてが殴る蹴るに変換されていた。自立式サンドバッグになったわたしはまばたきの猶予もなく、右の頬が殴られたら左で、額の次は側頭部で、パンチドランカーを期待されているとしか思えない猛攻だった。痛みはなくとも、顔の一部が潰れたようにひきつっているのを感じる。腹を蹴られても腕や足を掴んで折ろうとするとか、そういうことはなかった。つまるところ冷静さのない、我を忘れた、一方的な攻撃だった。
死ぬ程度の暴力でなにも考えられなくなるなんてこと、わたしにはありえない。痛みを感じない身体がわたしの思考を鮮明に保たせている。とても俯瞰的にわたしの人生を眺めれば、いまの状況は慣れきったかつての日常に回帰しただけだ。こうなってはなにをしても無駄だと悟って、余計な抵抗はせず、お父さんのことを黙って見上げた。熱くじんじんする瞼は腫れ上がっているようで、視界が狭い。
降り注ぐ発言を噛み砕いてまとめると、やはりおかあさんは要さんのもとに向かったらしい。ひとりで交通機関を乗り継げたのかと驚きそうになったけど、よく考えれば出来ないわけもなかった。誰もやらないならいつかは勝手にやれる程度、あのひとは半端で、困った顔をして立っていれば誰かが勝手に助けてくれる程度、あのひとは目をひく。
わたしが暮らしていた家でもある要さんの住まいにたどり着いたおかあさんが、どんなことをしたのかはわからない。ただ、あれだけの美人にあれだけの暴行を平然と働けるのはそういう凶悪犯罪者か、実名で連想出来るのは要さんくらいだ。うつくしさの価値がわからない、命の重みがわからない、愛の意味がわからない男。おかあさんは半殺しと言って差し支えない状態で命からがら帰宅し、お父さんは多分、いろんな感情に心を殺されてわたしを殴っている。
憎い男が愛する女を殴った、という絶望感。
その場にいられなかった、という無力感。
自分は選ばれていなかった、という敗北感。
わたしのことはもう娘だと思っていない。養女だとも思っていないだろう。どれだけ似ていなくてもおかあさんの娘であるわたしは、おなじようにどれだけ似ていなくても要さんの娘だ。
やがて、ある程度のことを話し終えたお父さんは口を動かすための思考を割く必要がなくなり、改めて全力でわたしを殴った。鼻の奥でぷつん、となにかがちぎれて自由になるような感覚がして、ほどなく大量の鼻血がこぼれる。
わたしはワンピースの胸元からおなかから裾、全体を点々と汚す鼻血を見下ろした。かわいくて気に入っていたのに、と場違いに残念がったのもつかの間、お父さんはそばにあった飾り棚にある花瓶を掴んで、わたしの横っ面を強打した。その一撃は間違いなくきょういちばんの重さで、正しく、殺すつもりがあったのだろう。道具による威力の増大はすさまじく、わたしの足もさすがに持ち堪えられない。殴られたのと反対、右側に向かって、衝撃を受けるままに崩れていった。
そして右の額あたりに、電流が走るような感覚があった。
さすがに目を見開いた。右の額を中心に全身からさっ、と血の気がひいたように感じたからだ。
床に倒れこんだわたしは、すぐ目の前に飾り棚があるのを認めて納得した。角で頭を打ったのだろう。こういうことは過去にもあった。
……結構、過去にはないくらい、血が出てるっぽいけど。
わたしはそこそこのんきに、流れ出た血に対して「おや」と声をあげたつもりだった。しかして開閉した口からはぱすぱすと空気が頼りなく吐き出されるだけで、あれ、とふしぎがいるうちに手足からも急速に力が抜けていく。わたしを見下ろすお父さんからすればとどめをさしやすい絶好の体勢だったはずだけど、お父さんはなにもしてこない。ガシャン、とその手から花瓶が落ちて割れた。見上げようとしたけど身体がうまく動かないので、その唇がわなわなと震えていることしか確認出来なかった。
数秒も経たないうちにお父さんはさっき入ってきたばかりの扉を抜けて、あわただしく家を出た。なにもかもから逃げ出すような、いまにも足がもつれて転びそうな、頼りなく激しい足音だった。
突然、水を打ったように静かになる。
秒針の音がカチカチと響くのを耳にしながら天井を見上げていると、意識が薄れ始める。血が出ているからか、頭をしたたかに傷つけたからか、痛みがないし天井が鏡張りになっていることもないので、どれほどの傷なのかわからない。
花瓶は薄いガラス製だったので、わたしを殴ったときに半分以上が割れて、残りもいまさっきこなごなになった。すぐ近くに破片と水と花が落ちているのを横目で確認して、こんなことのために飾られたんじゃないのに、とかなしくなる。飾られていた白いガーベラとラナンキュラスは、数枚の花びらを床にばらまきながらも黙している。
息をつくと、それだけで全力疾走をした後みたいにどっと身体が重い。疲れとも違う。
ただ、漠然と、胸が苦しい気がした。
失敗した。
間違えた。
……うまく、やれなかった。
もうちょっとだけでもわたしが壊れてたら、逆にうまくやれたかな?
意識を手放す間際、そんなことを考える自分に笑ってしまった。
無理、無理だって。
わかるよ。
◇
目覚めたわたしは床の血を出来る限りすべて拭いてから、血で汚れた服を着替えて、リボンをはずして、ひとり病院へ向かった。わたしが風邪をひいたときにひとりで通院出来ると言い張って、根負けしたお父さんが保険証と医療証を持たせたままだったからだ。不幸中の幸いだった。
外傷は整形外科だ、というのは調べなくても知っている知識だった。最寄り駅の近くにあるクリニックは土曜でも夕方までやっていて、よかったと胸をなでおろしながら入ると、受付にいた二人のお姉さんの笑顔がこわばる。必要なものを出して、問診票を書きたいと申し出ると、片方のお姉さんが奥にひっこんで、なにかを誰かと相談し始めた。問診票を書く間、待合室にいたひとのいろんな視線が突き刺さった。
問診票をわたすと、順番が前後するというかけ声とともにわたしは診察室に連行された。先生と看護師さんにあれこれ聞かれて、警察という名称も出たけど、わたしは「転んじゃって」「頭をうったんです」と言い張った。苦しい言い訳でもかまわない。子供が否定すれば家という箱庭の出来事を誰も立件出来ないと、わたしは知っていた。それはよくない結末しか引き起こさない選択で、間違った知識の使い方で、犯罪を助長することで、ぜんぶを承知していた。これ以上どれだけ間違ったって、わたしの薄情な心は痛まない。
血が出すぎたせいか、わたしは診察室でも倒れ、次に目が覚めると病院のベッドにいた。今度は数分でも数時間でもなく、カレンダーは一週間以上の枚数がめくられていた。窓の外にみえる満開の木蓮が、なによりもそれを実感させる。
なんだか、生き延びてしまったらしい。
残念ではないけど、安堵もなかった。生きているというのはただそれだけのことだ。こんなの死んだほうがマシだと誰かは思うのかもしれないし、それでも生きててよかったと誰かは思うのかもしれない。当然、どちらでもない人間もいる。
病室のふかふかした枕に埋もれながら、ぼんやり「生きてる」とつぶやく。声は紛れもなく自分のものだった。
わたしが意識をとり戻したことに気づいた病院の看護師さんは家に連絡したらしく、その日の夕方には渚だけが病室にやってきた。外もあたたかくなってきたのか、小学生の男の子というはつらつさのためか、上着の類は持っていない。
「……お父さんは?」
わたしがたずねると、渚は泣きそうな顔をしてから、唇をかんで「ごめん」とまず謝った。
「あいつは、あの女と受付にいる。ここには来ないって」
「あいつなんて、呼んじゃだめだよ」
「……葵をこんなふうにするのは、いいのかよ」
「よくは、ないけど」
わたしは苦笑いしながら、渚が座っているほうへ身体をかたむける。渚があわてて「動かないで」と立ち上がるけど、平気だよと笑う。頭にはミイラよろしく包帯がぐるぐる巻かれ、全身が殴打の見本市のようにはなっているけど、どこかが折れているとかではない。身体がしびしびして動きにくいくらいだった。点滴されている腕さえ気遣えばどうってことない。
「……父さんは」
ちいさな声で、渚が話し始める。
「あの女がでかけたのも、前の旦那に殴られたのも、全部葵のせいだって言うんだ」
「……そっか」
「おかしいじゃん。葵はなんにも、してないじゃんか」
「……」なにもしなかったことも、あるいは悪なんだけど。
渚は目に浮かぶ涙を服の袖でぬぐって、ぐうと喉を鳴らした。
猛烈な憎しみが、どろどろと声を覆っている。
「あの女、葵のこと悪者にするために、あんなこと……」
「――違うよ、渚」
渚が顔を上げ、わたしをみる。瞳は見開かれて、ちょっと困っているようだった。すこし強い言葉で否定してしまったなと後悔しながら、わたしは微笑んで、ゆっくり口を開く。
「おかあさんはきっと、そんなこと考えてなかったと思う」
ほんとうに、なにも、考えてなんかなかった。
わたしのことを悪者にしようとか、お父さんにわたしを殴らせようとか、そんなこと一切考えてないはずだ。
「渚とか、わたしとか、お父さんじゃ……逆立ちしたって、わからないけど。おかあさんは、自分がしたいことをしただけなんじゃないかな」
ただ、好きなひとに会いにいこうとしただけ。
その結果も、余波も、なにもかもどうでもよくて。
お父さんの気持ちも。
わたしたちのことも。
「どうでもよかったんだと、思う」
言いながらも、正直おかあさんのことは暗雲の向こうにいるみたいにわからない。どうでもよかったんだろう、と予測出来てそれが正解していたとして、一連の言動に理論をもたせるのはきっと不可能だ。要さんの子供を生んだのも、わたしを地下室から出したのも、要さんから奪うようにひきとったのも、要さんの家にいくのも。
……ちょっとがんばれば予測出来なくもなさそうだけど、やっぱり、筋を通すのは困難極まりない気がする。
もともとわからないひとだったのが、さらに理解から遠ざかってしまった。
要さんのほうが全然わかりやすい。
「なんでかばうの」
「かばわないよ。渚が怒りたい気持ちを否定はしない。わたしはなにもしてなかったけど、おかあさんもそんなに悪だくみ出来るひとじゃないんだ。めぐりあわせが悪かったの」
「父さんのことは」
「……うーん」
答えはあるのだけど、それをお父さんの実の子である渚に話すのははばかられた。結局、「家族だし、これまでのことを感謝してるから」と近からず遠くもない内容だけにおさめる。
ここで質問者が渚ではなく警察でも病院のひとでもなければ、素直に「かわいそうだった」と話していた。
もっと正直に言えば、渚のことが気にかかった。
わたしもそうだけど、こどもには権利もお金も保証もない。親というおとなを失って放り出されたら、普通の生活すら満足にはいかない。渚はそれでもいいと迷わず言うだろうけど、わたしは渚のおとうさんを犯罪者にしたくなかった。そんな人生を歩かせたくなかった。
他人の幸せを精一杯祈って、他人を傷つけないよう必死に考えたつもりで、実際はなにも出来ていなくて、悪手を選び続けた。それでも自分にはね返ってくるだけならましだと思う。自分が死にそうになって最悪死んだって、それでいいなら何度だって死んでみせる。それで身近なひとたちが幸せになるなら。
間違っていてもいい。
疲れたので目を閉じると、一瞬気弱になってしまう。
こんなこと話したら、お兄ちゃんたちには怒られちゃいそうだ。
20231103
>花に嵐/あとのまつり