虎視眈々と燦々と

 

 あたしの知る限り。天野歩という人間が恋をしたことは、なかったと思う。テンポが一から百まで何もかも包み隠さずあたしに全部自白してる、ってわけじゃないから断言すんのは、「いや、断言していいでしょ」「あ、そ」まあ、じゃ、ない。皆無。あたしに勝手に意見した店長の全人権を賭けて、なかった。そうだ。恋なんかするやつのこと真っ先に見下してつけ込むようなタイプだろ。おまえ、マジでどうした?
「ゆらくんは厳しいな」
「アルトよりはマシじゃん?」
「アルトちゃんは誰にでもああでしょう」
「血圧が心配な限りだわ」
「いやあ、青春だよねえ」
 手が空いたのか、バーカウンターの中に入ってきた店長が、微笑ましいじゃないか、とでも言うように二人のことをにっこり見守っていた。あたしだって妬んだり疎んだりしてるわけじゃないっつーの。単純に驚いてるというか、確かにちょっとウケるなって思ってるけど、嘲笑ってわけじゃない。テンポがマジで楽しそうなのも含めて、ビックリすると笑うタイプなんだわ、あたし。

 あたしは、ネイミーのドラム担当である以前に、ライブハウスリリクのスタッフである。大抵はバーカウンター内のことをやりつつ、必要であれば機材の調整や列の整理なんかを行ってる。機材調整や音響照明関係は、主にアルトというスタッフがこなす。店長は受付やら出演スタッフやらの裏方調整をしていることが多い。あんまり裕福ではないこのライブハウスでは、正規スタッフはあたしとアルトの二人だけだ。一蓮托生と言えば聞こえはいいが、一人欠けると詰むのは、いつかはなんとかしないといけない。

 ホールのフロア後方は、各アーティストの物販にすることが多く、バンドとバンドの間とか、イベントの終わりなんかに、そこに並んでCDやグッズを買い、場合によってはチェキを撮ったりしている。
 テンポがそこで、永句の物販の手伝いをしていた。あたしたちはそれを眺めていたわけだ。イベントも終わって、ドリンクの売れ行きもそこそこだ。後片付けまでの、一息つける瞬間だった。

 フリスビーマシーンのようにバンバン出てくる永句のCDは、年末のカレンダーとか手帳みたいに膨大な種類があった。それぞれのスリーブに写真が入っていて、それで見分けることになっている。この手法になったのは最近で、それまではマッキーで日付を書いたディスクを売っていた。本人も迷うレベルの均一でシンプルで端的に見分けのつかないデザインとなってしまい、混乱を極めていた。永句の友人にパケとかデザイン面に詳しい子がいるそうで、その子から、なんとか現状を打破しようと提案されたものらしい。非常に賢い。プリンターのインクの型番みたいなものだと思えばわかりやすいだろう。
 それでも彼女の出してる枚数はかなりのもので、売り切ったら再販しない方向性だとしても増えまくり、一人で管理するのは正直面倒なレベルだ。そこで売り子が必要になる。あたしやアルトの手が空いてればやってもいいんだけど、他のバンドの手前そこまで肩入れするわけにもいかない。別に長蛇の列になるわけでもないし、彼女はチェキとかやってないから、時間さえ許せばなんとでもなるのも事実だった。……と、自主的にその売り子枠に入っていくのがテンポだった。
 ついでに美人でかわいく若くてちょっと推しに弱そうな――実際そんなことはないにしても――永句を狙う不届きな輩も即刻成敗してくれるので、一石二鳥の存在である。そういうサブ目的のある人間であっても、あたしたちスタッフからすると客でもあるので、即吊るしに行けるわけじゃないのが歯痒い。ウチの場合店長が早めに声掛けをすることにはなってるけど。そういうやつは、口コミにクソレビューを書いてくるような厄介客ばっかなので、リリクの口コミにスタッフの接客が最悪と書かれたりもする。その兼ね合いが難しい。
 まあ、テンポがね。そこらのシンガーソングライターおじさんよりも、よっぽど厄介な感情を抱えているやつでなければ、もっとよかったんだけど。

 天野歩。本人が名前を好んでいないこともあって、あたしはテンポと呼んでいる。天と歩だから。このあだ名をつけたのが誰だかは知らないが、そのあだ名で声高に呼びまくってた男もいたし、本人もそう名乗るしで、自然にあたしもそう呼ぶことにした。
 テンポは、あたしのやってるバンドのベーシストだ。ネイミー、というバンド。店長の拾ってきたギタリストを見た瞬間、あたしはバンドを組もうと思った。理論はない。カンだ。
 響とだけ名乗ったギタリストが来襲した瞬間に、テンポもいた。あいつにあたしと同じような衝撃を覚えたかは確認しようがないが、呆気にとられて響を見つめていた。だからってのはおかしな話かもしれないが、テンポもついでに巻き込んだ。スリーピースバンド、ネイミーの発足はそんなもんだ。

 テンポは、以前所属していたバンドが爆発四散してからというもの、何に対しても傍観者みたいな位置に立っていた。
 ネイミーにおいても、テンポは、本人の明確な意図を持って、少しだけ音楽の遠くに立つことを選んだ。これからあたしや響が何をしたって、それは変わらないだろう。それを悪だなんて思うほどあたしも熱血じゃないし、あいつの人生に責任取る気もない。むしろ、その方がいいとさえ思う。テンポが本気になったら、人間の一つ二つ壊したって気にしないような音楽の追い求め方になるのも知ってる。
 テンポはなんというか、歌を歌う存在のことをメチャクチャ強いと思い込んでいた。それが遠因でこいつが高校からやってたバンドは爆発四散した。だからこそ、次に選んだ道が響とあたしだったんだと思う。これから壊れることのないくらい壊れてるやつと、才能だけが大好きなあたしなら、あいつは音楽と距離を保てる。出会う度に壊れるまで強度を試してたらフロントマンの数が足りない。テンポの望む幸福なんてものはきっと、来ないのだ。何度信じて眠っても、覚めても、変わらないなら、自分の望むものを変えて折り合いをつけていくしかない。そうして、諦観を少しずつ慣らして。

 でも。
 いないと、来ないと、思い込んでいたその存在が、目の前に隕石のように墜落してきたら?

 好きなのか訊ねてみたことがある。二秒で後悔した。割とマジトーンで話が展開されたからだ。茶化し目的で聞いたあたしも悪いが、あのトークは怖いって。
 恋かどうかの話はさておき、かなり本気だということだけは理解できた。テンポは人を好きになることについて理論しか知らないタイプらしく、恋愛かどうかの確定はあとに回したらしい。論理的なのか頭がおかしいのかわからんけど、あたしには到底できない芸当だ。あたしは好きになるのが女なだけで、好きかも! という直感でここまでやってきたタイプだ。相手があたしのことを好きになる確率が極端に低いことを覗けば、あるあるの恋愛スタートだと思う。

 一人、また一人とホールを出ていく。多くの人間がいた匂いだけが残されていく。出演者たちも後片付けを終え、店長とやりとりをしてから店を出る。永句も広げていたCDをしまい、ちょこちょこ身近なところの椅子や机を整えて、荷物を背負った。

「あの、天野さん、ありがとうございました」
「全然。あ、在庫どうする? 次も下北だったよね。俺の家に置いておこうか」
「いいんですか? あ、……えっと、でも、在庫の数にあわせて増やすので、今日は持って帰ります」
「そっか、じゃあ今度また必要なときは置いてってね」

 世界を撃ち落とした隕石の、あっけない退場である。
 その場に残されたテンポは、いつもの柔和で人類全部に優しいですみたいな表情は皆無でこっちを睨んだ。睨んでもなんにもならんけど、ニヤニヤ見てたあたしたちも悪いので「ごめんごめん」と軽く謝罪を口にした。

「……何がすごいって、もうこれは永句がすごいんだよね」
 そう。大事故確定の最悪の猛烈なテンポのラブコールに対して、永句は、ただひたすらに鈍感なのである。この話は、ラブコメだとあたしは思う。
 テンポが持ってる感情が、可愛い恋心……なーんて口が裂けても呼べない化け物じみたものだとしても、永句の鈍感さだけで話の大半がギャグになれる。音楽やってる永句は残酷だって誰かは言うけど、あたしからしたらこのテンポへの仕打ちのほうが全然残酷だし、っていうか永句に音楽以外させるほうが残酷だっつーの。
 最強最高の才能を持って全部をなぎ倒して行ける。にこにこと笑って、世界一楽しそうに歌う。誰もいない世界でも音楽をするだろう、その女の子は、マジでマジでマジでただの鈍感女子大生、しかも人間一年生だったってワケ。

 まあ、これだけならあたしもこの物語をラブコメ扱いはできない。片方が鈍感女子で片方がクソ重男ってだけだと、フィクションならともかくリアルワールドではかなりキツイ。自分の身内にそういうのがいたら絶縁やむなしである。
 あたしと、強いて言えば店長やアルトは知っている。永句の方もかなりテンポのことを気にしているということを。天野さんはとても優しくて、わたしにも優しくて、音楽に対してもすごく真面目で……と、彼女の口から聞いたのだ。脈ありナシで言えばありだ。
 テンポにとってそれが朗報になるかは不明だ。なぜならテンポの恋心的側面に彼女は全く気がついていないから。

「見てないでなんとか助けてくれない?」
「無理だわ、ウケんね」
 きゅ、っと洗った後のグラスを磨き、棚に戻す。裏手の片付けを済ませたらしいアルトが顔を出し、「脳みそ花畑はよ帰れや」と追い打ちをかける。それに対する返事の代わりに、テンポは別にうちのスタッフでも何でもないのに、店内のレイアウトを戻す手伝いに入った。
「まあ、テンポが楽しそうで何よりだけどね」
「……全然楽しいですけど」
「全然の使い方間違ってんぞカス」
「アルトくん性格悪くなった?」
 テンポが手伝ってくれれば人手が多くなり、その分あたしたちは助かる。アルトは口を開けば悪口雑言の嵐になるのがダメなところだけど、ここのスタッフやって長くなってきたし、手際もいい。今日は早めに帰れるかもしれない。
 ホールがしんとしたのを感じ取ったのか、響が二階から降りて、のそのそと裏口から入ってきた。……いやいや、あんたのやれる仕事はないぞ。

「てか諦め悪すぎませんか、引く」
「諦めるもなにも、……別に、目的ないからなあ」
「は? マジで逆迷惑だからやめな」
「そこー、喧嘩しないのー」
 あたしとアルトは納得いかないが、店長の一声でいったんは退く。

「じゃあ、何を」
 ぽつり、と響が不思議そうに呟いた。じゃあ何を。何を拠り所に、君はこんな海で彼女を追っているのだ。
 響の疑問はもっともだ。テンポみたいなやつに、見返りのないものは似合わない。そう言ってしまうとテンポの性格が最悪みたいだけど、人間ってだいたいそうじゃん。響の声は通るわけでもないのに必ず耳が捉えてしまう不思議な音をしていて、あたしたちの全員がその呟きで固まる。「あー……」テンポが言い淀んだ。それからスローモーションみたいに瞬きをして、

「一生一緒にいてもいいと思われたい、かな」

 さらりと。実は水はあまりにも透明で鋭利なように、ストンと言った。あたしたちがコンマ二秒固まって答えや切り口を探したのに、あんまりにも自然な言葉で。
 テンポはその後すぐに、へら、っと笑った。一瞬でも迷って損した。アルトとあたしは浮かれポンチのテンポのことをボロクソに叩いたが、それでも何だかいいなと思っている自分もいた。響も心なし満足そうに床に水をこぼしていた。待て、こぼすな。

 周回遅れでやってきた青春は、ゴミ箱みたいなライブハウスでバカみたいに咲きまくってる。

written by Togi