もうじき夏が

 

「それで、言わなかったの?」
 高校二年生の初夏。
 昼休みの教室で、秋雨はサンドイッチをかじりながらたずねた。わたしはおにぎりの最後のひとくちをほおばりながら「それでって、どれよ」と聞き返す。みじかい昼休みをむさぼるようにわたしたちの話題は尽きず、秋雨がなにを思い返してそう言ったのか一瞬わからなかった。
「あ、初恋の話。三橋の。さっき、三橋が転校して終わりって聞いたの思い出してて。言わなかったのかなって」
「話の咀嚼にどれだけ時間かけてるの」
 すでにわたしの初恋なんてつまらない話は終わって、部活の話にうつっていた。剣道部の試合がどうこう、文芸部の部誌がどうこう。秋雨は帰宅部だから他人事で話を聞いてるうちに、いまさら気になる箇所が出てきたのだろう。秋雨は成績の通り賢いし敏いけれど、妙にぼんやりした、抜けているところがある。だから水屑くんと湯島くんもほうっておかないし、わたしも同級生よりはひとつふたつ年下のように感じる。成績は誰よりも上だけど。
 秋雨はマイペースにサンドイッチを食べ終わり、次の菓子パンを開けながら「だってさ」と口を開く。水屑くんと湯島くんは試合の話をいつの間にか中断していた。
「言わなかったら伝わらないじゃん。三橋が好きだってこと。伝わらなかったら、せっかく好きになっても意味ないんじゃない?」
「叶多」湯島くんがすこしはりつめた声で制した。秋雨は幼馴染の反応をみて自分の言動をかえりみるところがあるので、はっとしたように「ごめん……」とつぶやく。わたしは改まって肩をちぢめる秋雨がやけにおさなくみえて、笑いながら「いいよ」と手を振った。
「わたしもね、そう思うよ。言わなかった恋なんて、相手からすればないのと同じだもの。自分がずーっと、一生涯ひきずりそうな感情であればあるほど、ちゃんと整理したり清算したりしないといけない」
 それを怠ると呪いになる。
 いまよりもっと、こどものころ。名字もちがって、受験勉強もしたことがなくて、どんな色眼鏡でもおとなには見間違えられなかったころ。わたしは恋のいきつく先が、呪いだけだと信じていた。ほんとうなら叶わないようなものほど、たやすくつよい呪縛になる。信じていたし、怯えていたのだ。
 秋雨はわたしの顔色をうかがうように、すこし上目遣いでこちらをみる。顔立ちがおんなのこみたいに整っているから、その姿だけみればドラマのワンシーンみたいだ。
「……でも、言わなかったんだよね?」
「そうね。なかったことにしたかったから」
「そんなことある?」
「そんなことあるの。……ふふ」
 秋雨の言葉を反芻すると、急に笑いがこみあげた。ちいさく笑いながら目を伏せて、窓から吹きこむ夏の匂いを肺いっぱいに吸うと、ぼんやりあのころを思いだす。誰かにこだわって、ほかのぜんぶがばかばかしくなって、呪われたおとなたちをいたましく思って。それでも無力でちっぽけなこどもに過ぎなかった、十歳の自分。
 こどものくせにおとなをあわれんでいたわたしは、やっぱりちょっとゆがんでいた。ませているとかじゃなくて、単純に浅はかで、青くて頭でっかちのちびっこだった。いまもたいして矯正はされてないけど、あのころのお兄ちゃんたちと同い年になってみて思う。十歳のおんなのこと数日に一回顔をあわせ、他愛ない話をして、おんなのこの痣や傷を気づかい、自分たちの境遇を勝手におしはかられるなんて、ひとによっては全然いやがってしかるべきだ。お兄ちゃんたちはただただ、やさしかった。自分が高校生になってみて、自分が思ってたよりもずっと迷惑をかけるこどもであったことを自覚した。初恋よりもまず、申し訳なさと感謝を伝えたかった。あれきり会っていないひとたちに。
 教室をみわたすと、たくさんの生徒が笑ったりすねたりささやきあいながらひしめいていた。半袖のセーラー服とワイシャツ姿の、少年少女。
 そこにわたしもまじっている。
 十六歳になってしまったわたしは、ある程度家に帰らなくても生きていけるし、文月さんの小説もなんてことはなく読めるし、おかあさんを得体が知れないひとだとも感じない。まだまだ自由じゃないけれど、あのころより確実に、手足がのびる範囲は広い。
 独り言のように、つぶやく。
「……なかったことになれば、あのひとたちの中では終わるでしょ。それがよかったの」
「無欲ってやつ?」水屑くんが友人らしい絶妙な図々しさで、身をのりだす。こういうときに屈託なく印象を話すところが、水屑くんのかわいいところなのだ。わたしは笑顔をつくりながら、「さぁ。どうなのかな」と首をかしげる。
「言葉を選ばず言うなら、付き合うとかがどうでもよかっただけなのかも」
「……無欲っていうか、淡白っていうか」
「あはは。そんなにきれいでも、孤独でもないよ。ただ、無頓着なの。わたしはあのひとたちと一緒にいてうれしかったし、一緒にいれなくなっても、それをよかったと思うから」
 わたしの初恋は昔もいまも凪いでいる。
 どこにもつかないまま、とまったから。
 あのころ十歳のわたしが想いを告げたところで、なにかが劇的に変わることはなかったと思う。それくらいわたしはちいさくて、高校生の彼らがどれだけ真摯にこころを砕いてくれても、限界があった。痣だらけの痩せ細ったおんなのこを、自分たちにやたらとなつく存在を、十六歳の少年たちがどう思っていたか、知る術はない。それでも劇的なちがいなんてなかった、と思うのだ。
 たおやかな風の音がする。初夏の風は涼しくてきもちがいい。
 学校からほどちかい民家の庭にクレマチスが咲いていたことを思い出しながら、わたしは目を閉じる。秋雨も水屑くんも、もうなにも言わなかった。

 ■

 七月末のお祭りの日、隕石のように来訪したおかあさんと文月さんの話はあまりにも簡単にまとまった。わたしは九月から学校を変え、八月のなかばまでに住まいも変わることになった。文月さんは急な転校について申し訳なさそうにしたけど、そこに未練などないのでちっとも気にしていない。ほかに心配事があるかとたずねられたときも、わたしはあかるく笑って「なんにも」と言いきった。
 お兄ちゃんたちのことだけが、気になっていた。
 八月にはいってから、毎日のように公園と駅を往復した。宿題はすこし残っていたけど、転校先に提出出来ないし、やる必要もない。わたしの一日はもてあまされるほどに退屈で、同時に猶予はなかった。八月二十五日まで、わたしはここにいられない。ひっこす先は電車でたった数駅離れただけだけど、駅からバスにも乗るし、小学校は家から数分のところにあると聞いた。いまの生活圏とはまるで違うのがわかりきっていたから、お兄ちゃんたちに会えなくなるのは確実だった。
 瞳お兄ちゃんの塾も、三人の高校も、もちろん家も、どこにあるのかわからなかった。前に教わった電話番号にかけようかと考えたけれど、夏休みの三人の生活が自由でないことは知っていた。わたしは偶然を祈って、毎日、駅と公園を往復した。
 会えなければそれだけなのかもしれない。
 あきらめも、簡単につくのかもしれない。
 でも、会いたかった。さいごに話がしたかった。
 一日中駅前を歩くひとたちをながめていると、ころころ変わる天気のようにわたしの気分も入れ替わっていく。もうあきらめてもいい。まだ会いたい。たくさんやさしくしてもらった。ちゃんとあやまりたい。
 日が暮れて百日紅の匂いがするたび、爪で胃をひっかかれるようにおなかがきりきりした。要さんはわたしがいなくなることを理解しているのかもあやしく、よく寝て、不機嫌になったり殴ってきたりさびしがったり、なにも変わらない生活を送っていた。睦月も文月さんも、去年の夏とほとんど同じように過ごしている。ほんとうはみんなそれなりにいそがしく、あわただしくしていたのだろうけど、わたしにはわたしだけが焦って怯えて、走りまわっているような気がしたのだ。
 夏はすごい速度であつさを増して、真夏日で熱中症に気をつけるように、という予報が連日つづいた。わたしは公園で水を飲んで、本屋さんですずんで、朝から晩まで同じところをうろついた。お兄ちゃんたちのことをなんにも知らないから、お兄ちゃんたちがいつもどこでどうやって過ごしているのか、見当もつかなかった。すきなくせになんにも知らないのだ、と気づいて、わたしの足は止まった。急にむなしくなって、蝉の声がしたたってきそうな駅前で茫然としていた。
 そうして一週間ほどが過ぎたころ。
 うだるような真昼。
 とつぜん、駅前の広場に瞳お兄ちゃんがあらわれた。腕時計を確認しながら、足早に商店街を歩いていく。わたしはアスファルトの熱にすっかり茹でられて疲れていたけど、いつだったかもそうしたように、走って眼前に飛びこんで「お兄ちゃん」と大声で呼びかけた。
「……葵?」
 あつくてぼんやりした表情の、それでいてやけに必死なわたしをみおろして、瞳お兄ちゃんはへんな顔をした。腕時計を確認していたし、時間がないのかもしれない。手短に済ませようと、その顔をみあげる。
 切れ長のまなこが、ちっちゃなわたしを映していた。
「……瞳、お兄、ちゃん」
 目をあわせたとたん、凪がおとずれた。
「わたし、会えなくなるの。……ひっこすことになって」
 おどろくほど冷静に、わたしは説明した。手短な言葉を瞳お兄ちゃんは正しく受け取り、いつでも歩きだせそうだった姿勢を崩した。しなやかな肩や腕の力が抜け、全身から、どこかへと急いでいた気配が消える。静かにわたしをみおろす視線は、どこか傷ついているようにもみえた。瞳お兄ちゃんの心痛がわたしにわかるはずもないので、そうみえただけだろうけど。
「いつ?」
「もうすぐ」
「今日じゃない?」
「きょうじゃない。けど、あしたはもう、これないかも」
「そう。……お前、俺達のこと探してた?」
 淡々とたずねながら、瞳お兄ちゃんはわたしの髪にくくられたリボンを直して、トートバッグからとりだしたペットボトルをわたしてくる。ん、と顎で示されて、水分補給を怠っていたことに気づいた。おずおずペットボトルを受けとると、瞳お兄ちゃんはわたしのほっぺたを手のひらでおおって「あつ……」と不機嫌そうにつぶやいた。わたしはというと、手のひらがちょっとひんやりしててきもちよかった。
 買ってからそんなに経っていないのか、ペットボトルの中身はよく冷えていた。冷たい水をひとくちのむと、自分のからだや顔がすごく火照っているのがわかる。熱に浮かれたほっぺたが、水を含んでもとの感覚を取り戻していく。「それ、飲みきるまで飲んでろ」と瞳お兄ちゃんが言うので、わたしはだまって水をのみつづけた。のめばのむほど頭が覚めてきて、凪も、色濃くなった。
 携帯でなにかを打っている瞳お兄ちゃんは、ペットボトルを空にしてぼんやりしているわたしをみて「とりあえず、場所変えるか」とつぶやく。その声はやっぱり、いつもよりさびしげに聞こえた。からっぽのペットボトルを片手に持ったまま、そっと瞳お兄ちゃんの手を握ると、だまって握り返してくれた。手のひらはさっきよりぬるくなっていた。

 瞳お兄ちゃんはわたしを公園ではなく、ファミレスの四人席に連れていった。入口で「後から二人来ます」と瞳お兄ちゃんが言っているのをはてな、とながめていたけど、まもなく祐樹お兄ちゃんと楓お兄ちゃんがバラバラにやってきた。ふたりともすこしあわてていて、冷房で元気を取り戻したわたしの顔をみつけると、ほっとしたように笑った。それからすぐ、さびしそうに顔をゆがめた。
 わたしは瞳お兄ちゃんが注文したアイスケーキをゆっくりたべながら、「おかあさんが再婚したらしいの」と話す。口にだしても実感はなかった。文月さんのかなしい夢をみるような目つきが脳裏をよぎって、また、あのおとなをあなどるようなきもちが生まれる。首を振って思考を払った。
「わたしの名字、おかあさんのだから。親権もおかあさんにあるんだって。名字も変わるんだと思う……」
「再婚したひとの家に住むってこと、だよね」
「うん」ふしぎなほど話題にあがらなかったあたらしい父親を想像しようとして、つい笑ってしまう。「へんなかんじ」
「そうだよね、当たり前だよ……」
 祐樹お兄ちゃんは苦しそうに声をしぼりだす。やさしいなあ、といまさらになって胸がじわじわと熱をもつ。祐樹お兄ちゃんはまるで自分のことのようにわたしの傷を悼み、笑顔をよろこび、愛してくれていた。自分のこと以上に、かもしれない。どんなときでもわたしは祐樹お兄ちゃんにいつくしまれていると思っていたけど、それって多分すごいことだ。他人同士のふれあいで、そんな確信を持てるなんて。
 会えなくなるひとたちと一緒にいる、と思うとせつなくなるけど、いつも通りお兄ちゃんたちといる、と思うとうれしかった。夏休みでみんな私服だけど、祐樹お兄ちゃんに痣はなかったし、楓お兄ちゃんはカメラを持ってた。わたしも、肩や喉に痣はあったけど、額が赤黒くはれていたけど、それだけ。なんにも変わらなかった。これからもずっと変わらないはずだった。
 三人はいつもと変わらない風に接してくれている。反面、流れている空気はどこか気弱で、散りかけの花を焦って観察しているような余裕のなさがあった。わたしもわたしで、さいごに会えてよかったなあとよろこぶ自分と、これがさいごになるなんて信じられないと愕然としている自分に引き裂かれていた。アイスケーキもおいしいけど、たべきったら帰らなくてはいけない気がして、手が進まない。
「葵」
 楓お兄ちゃんの呼び声に顔をあげる。
 ぱしゃ、
 簡素なシャッター音が、四人席にひっそりと響く。
 星が頭に落っこちてきたような心地で、わたしは楓お兄ちゃんをみつめた。楓お兄ちゃんは屈託のない、はじめて逢ったときとおなじひとなつこい笑顔を、かすかに曇らせていた。だけど確かに笑っていた。隣の瞳お兄ちゃんはなにも言わずに、わたしの頭をみおろしている。祐樹お兄ちゃんはカメラの画面を覗きこんで、切なく笑む。
 楓お兄ちゃんは写真を撮るだけでなにも言わなくて、わたしは急に、三人がおとなになったときのことを想像した。一年、二年、五年と歳を重ねたとき、お兄ちゃんたちは変わってるんだろうか。変わらないんだろうか。なんにせよ、そこにわたしはいない。
 わたしがいる未来は想像出来ない。
 それでいい。
 それでいいんだ(、、、、、、、、)、と思えた。
 自分の中になんの諦念もなくて、安心した。
 おとなになったお兄ちゃんたちのそばにいなくても、わたしは多分、生きていける。きのうまでのわたしが、どれだけそばにいたくても。自分がいない三人を、難なく思い描ける。
 夏の終わり、流星が頭を貫くように出逢って。
 一年間、わたしにとっては誰よりも近い他人だった。
 すきだと、思った。
 三人といるとわたしはおしゃべりで、いろんなことにうきうきしたり文月さんたちに言えない秘密をつくったりして、時間が過ぎるのはあっという間だった。生きていることをはじめて自覚した。わたしはずっと、要さんや文月さんのお人形で、文句も疑問も抱けないほど、骨にも皮膚にも内臓にも呪縛が広がっていた。誰かに恋するおとなたちの、呪縛が、わたしにも手をのばしていた。それがおかしいとすら思えなかった。
 でも、いまは生きているし、生きていけると思う。
 わたしはあのおとなたちと、おなじじゃない。血が繋がっていてもべつの人間だ。
 ぜったいに、自分の感情を腐らせない。
 大切にしたいなにかのために、誰かを呪わない。
 ここ数日はその決意も崩れそうなほど、焦って三人をさがしていたけれど、瞳お兄ちゃんと目をあわせた瞬間にほどけた。祐樹お兄ちゃんの声をきいて氷解した。楓お兄ちゃんの笑顔をみて、目が覚めた。呪いになんてなれっこないほど、わたしの感情はあまい。つたなくておさない。わたしは、大切なひとの顔をみたらいとも簡単にうれしくなってしまうのだ。
 だからだいじょうぶ。
 誰も三人のかわりにはならない。
 わたしの恋は呪いにもなれない。
「……お兄ちゃん」
 がやがやとさわがしい夏休みのファミレスで、わたしの声はか細くまぎれた。三人は聞き漏らさず、それぞれの反応を返してくれた。
 よく冷えた空気を吸いこむ。
「わたしがいなくなったら、ちょっとだけ憶えててくれる?」
 前にも楓お兄ちゃんと行った川原で、おなじことを聞いた。あのときもいまも、わたしは満面の笑みじゃないけどちゃんと、笑っていたと思う。
 誰よりもはやく、祐樹お兄ちゃんが「当たり前だよ」とちからづよくうなずいた。瞳お兄ちゃんのちょっと冷たい手のひらが、ぐりぐりと頭を撫でてくる。「忘れること前提にすんな、失礼だろ」と言うぶっきらぼうな声に、ほっと息をつく。
「ずっと憶えてるよ」
 楓お兄ちゃんはあのとき答えてくれた言葉の、半分だけを口にした。あの日とおなじやさしい声音で、あの日のきもちがどっと押し寄せてくる。自分を幸福なこどもだと思った、秋の川原。飛んでいった真っ青な鳥と、引っ張られた手。わたしはまばたきを二回して、
「楓お兄ちゃん。なるべくでいいから、わたしの写真持っててくれる?」
「はは、なるべくじゃなくて、持ってるよ」
「……俺も! 葵ちゃんの写真ほしい。楓今度流して」
「葵、いい?」
「へんなかおしてるやつじゃなければ」
「お前、大抵変顔だろ」
「瞳! なんてこと言うの! ばかばか」
 祐樹お兄ちゃんが身をのりだして瞳お兄ちゃんを叱ると、さざなみのようにみんながゆっくり、くすくすと笑いだす。真夏のきんきんに冷えた店内で、わたしたちの席だけは春の小花が咲いて散るように、ひっそりと、揺れていた。
 わたしはもう一度、三人がいまよりおとなになった姿を想像する。
会いたいけど、やっぱり会えなくてもいい。
 一緒にいれて、うれしかったから。
 きょうまでのわたしが、うれしかったのを、きょうからのわたしはよかったと思うから。
 あした一緒にいれなくても、だいじょうぶだった。

 わたしたちはしばらくファミレスで話しこんでから、何事もなくいつも通り、公園へ向かった。祐樹お兄ちゃんとぎゅっと手をつないで、左右に揺れるようにゆったり歩く。道中、瞳お兄ちゃんが携帯にかかってきた着信を「後でいい」と無視してたり、楓お兄ちゃんが携帯の電源を切って「補講って言って出てきたから」と笑った。三人をとりまく束縛は相変わらず健在だった。
 蝉はあちこちで大合唱をくりひろげている。民家の庭に咲いた三本の向日葵が、けたたましい鳴き声に苦笑いするようにゆぅらりと揺れていた。
 たちどまって向日葵をみあげていると、楓お兄ちゃんがレンズを向けてきた。そっと微笑んで、シャッター音がひびく。また歩きだす。
 なまぬるい風が吹く。
 いつもの公園へつづく道は、ながくもみじかくもない慣れた距離だった。わたしはどうしても、これきりだ、という実感を持てないままでいたけれど、公園についたときにはじめて、波のようなかなしみがやってきてちいさく声をもらした。
 公園のまんなかに、ぽつんと立っている人影があった。
 永遠に少女のようだけど、永遠になにかを嘆いているような潤んだ瞳。蜃気楼めいている、朝露に透けた花びらにも似たうつくしい顔立ち。
 おかあさんだった。
 いつまでも濡れつづけた、山荷葉の匂いがする。
 わたしが不自然に動きを止めたので、お兄ちゃんたちは公園の中をみて、合点がいったように「あぁ……」とつぶやく。ぼんやりと立っているおかあさんは、わたしを連れ去る亡霊のような風情だった。祐樹お兄ちゃんがかたくわたしの手を握りしめる。
「葵」
「……おかあさん」
 おかあさんがわたしに気づいて、なぜかかなしそうな笑顔を浮かべる。このひとのことをなにも知らないから、どんなときもそういう顔になるのか、普通にいたましい出来事があったのかわからない。ただ、おかあさんはわたしとならぶ三人の少年をみて、怪訝そうに首をかしげた。
「葵、その子達はだれ?」
 やわらかな声はかつて――かつてというのは、四年ほど前におかあさんがわたしを家の地下室から連れだそうとしたとき――とおなじ、世界に対する薄ぼんやりとした不満を感じさせた。鈴を鳴らすように透明だけど、だからこそ端が濁っているのがよくわかった。
 居心地がわるい。わたしがこどもでなければ、お兄ちゃんたちの手を引っ張って走っていったかもしれない。叶うはずのない夢想。
 祐樹お兄ちゃんの手を一瞬つよく握って、力をゆるめる。
「……誰でも、ない。わたしのしりあい」
「だいぶ、年が離れて見えるけど。だいじょうぶなの?」
「わたしのことだから、わたしがだいじょうぶならいいよ。わたしが一緒にいたかったから、一緒にいてくれたの。おかあさんが案じるようなことはなんにもしてない。……六歳ちがうだけだよ。たかが、六歳でしょう」
 うそ。
 いまのわたしには、六歳という差ははてしなくおおきい。年下のこどもであるわたしがこんなことを言うばかばかしさに、顔がゆがみそうになる。たとえばわたしが十六歳でお兄ちゃんたちと同い年なら、いろいろと、それなりにちがっただろう。こんなわかれも来なかったかもしれない。ありえない仮定だと一蹴してしまえるのがむなしい。
 こまっしゃくれた物言いをする生意気な娘に、おかあさんは純真無垢な少女のような目を伏せて「……そうね」とつぶやく。震えた語尾に傷つけたのだろうな、と思うけど、謝りたくなかった。おかあさんの再婚相手がおかあさんの六歳上であることを、わたしは睦月から聞いていた。「大人になってからの六歳なんて大したことないんだよね」と、わたしを慰めるように言ってくれて、ちょっと笑ったものだ。
「葵、……でも、もう、いかなくちゃ」
 おかあさんがのばしてくる手は、真夏の公園だというのに、大理石の彫刻のように蒼白い。わたしはすぐに祐樹お兄ちゃんの手を離して、ちいさくうなずいた。
 いかなくちゃ。
 どこへ、なのかはわからなくても。
 まだ、ひとりではどこにもいけないのだから。

 ほっそりとしたおかあさんの手に引かれながら、わたしは公園をあとにする。おかあさんの視界は要さんとどっこいかそれ以上にせまく、わたしがなんど振り返っても気にする気配はなかった。
 わたしは公園がみえなくなるまで、くりかえし後ろをみる。
お兄ちゃんたちは手を振ることも叫びだすことも写真を撮ることも、せず、だまってわたしを見送っていた。
 チューリップの匂いがする。
 クレマチスの匂いもする。
 ……リンドウの匂いが、する。
 わたしは生まれてはじめて、この匂いはなんなのだろう、と思った。実物をかいでみても三人とおなじ匂いはしないし、きっと誰も同意してはくれない。ちいさいころからいろんなひとに、いろんな花の匂いを感じた。だけれど言わなかった。他人に言っても伝わらない、自分だけの尺度で感じているなにかだと自覚していた。チューリップもクレマチスもリンドウも、わたしが勝手にそう思っているだけで、お兄ちゃんたちはついぞなんとも感じなかっただろう。花は人間じゃない。
 けど、わたしがいつか死んだとき、誰かにその花を手向けてほしいと思った。初恋のひとたちとおなじ気配の花を。そうしたら死ぬまでにどんなこころのこりがあって怨霊になりかけていようと、たやすくうれしくなれる気がした。
 呪いになんてなれない、ともう一度思う。
 そんなものにすらなれないほど、わたしの恋はちっぽけで。
 わたし自身も、幼くて。
 やっぱりどれだけ顔をみても、声を思いだしても、うれしかったと思うだけだ。

 夏の風が吹く。
 わたしは振り返る。
 彼らはずっとそこにいる。
 さようならも言わなかった。

 それきり、三人とは会っていない。