幸福なおとな

 

 破滅が、俺の恋だった。
 器用に生きてきたと思う。なにをするにも隣家のおばさんや寄り合い好きのおじさんたちに情報が拡散して生きづらい地元を離れて、東京の高校に進学した。狭いけど小綺麗な寮がついてるそれなりの進学校で三年間を過ごし、そのまま都内の大学に受かって、一人暮らしを始めた。盆と年末、それから誰かの冠婚葬祭になれば地元に顔を出すけど、俺自身は都会の雑多なネオンや手入れの行き届いていない裏路地、あっちもこっちも当然のようにぴかぴかしている駅ビルの天井が性にあっていた。借りていた古いアパートは高校と大学を共にしたひとつ上の先輩が階下に住んでいて、幸いにも優秀な学生であった彼から聞ける話は大いに参考になった。学部も同じだったし。高校の国語教師を志していた俺は、多分そのまま東京の高校に勤めるだろう。今のところはそのつもりだ。
 器用に生きていきたかったし、おおむね、願った通りにやれていた。彼末(かのすえ)真夏(まなつ)という男の人生は、俺があまり好めなかった土と風と緑の匂いにまみれたものではなく、ひびわれたアスファルトと、まぶしい喧騒と、ぼんやりしていたって何かが起きる人の波にのまれていた。あっという間に年をとって、充実している。そういう毎日に、満足していた。

 大学三年の夏前。うちの大学では三年からゼミが始まるし、秋に教育実習もあった。今までと違う様相で忙しく生活を回していた俺は、学部やゼミの人達と飲みに行くことも減っていた。同じアパートに住む君久(きみひさ)先輩とはたまに近くの居酒屋に行ったけど、それも飲むっていうより、飯を食いに、って感じだ。
 君久想人(おもひと)は高校の頃から成績のよさと整った容姿、それから「ちょっとおかしい」母親がいることで有名だった。長い脚を投げ出すように歩く様も無愛想なのに綺麗な横顔もモデルみたいで、ひとりでいることが多いけど話せば案外気さくで、勉強も運動も努力しなくたって出来る。後輩であった俺のクラスにも、淡い憧れを抱いている女子は少なくなかった。そしてその子達のほとんどが、君久先輩のお母さんに打ちのめされて恋を終える。先輩のお母さんが先輩を異常に束縛してくる毒親で、学校行事すら満足に出れないという話が流れてきたとき、学校という空間が地元と大差ないほど閉じていることに気づいた。少しひきつった笑いで受け流したけど。
 一年半前にそのお母さんを亡くしてからというもの、君久先輩は今までの疲労が爆発したように四肢を重たそうにして、何を考えているのかわからなくなっていった。それもかっこいいとか言う子はいたけど、俺はやっぱりひきつり笑いで曖昧に同意した。自分のそんな姿まで好かれても困らない?
 その年の春頃からだ。君久先輩の話に「葵」という女の子が登場するようになったのは。長い黒髪にリボンを結った素朴な顔立ちの少女らしいが、いつ会っても酷い怪我をしているそうで、俺はその頃君久先輩のことを不憫だけど少し怖い、理解不能の男として捉えていたので、妄想かもしれないなあと失礼なことを考えながら話を聞いていた。
「最近、おかしいか? 俺」
 居酒屋でだし巻き玉子をつつきながら、先輩は尋ねる。
「……最近。まぁ、そうですね。最近ちょっと、葵ちゃんの話が多い気はします」
「葵の話はそこまでしてない」
「はぁ」
「話す相手もいねぇし」
「そこですか。相手がいたら誰彼構わず話しちゃうって風にとれますけど」
「悪いのか?」
 君久先輩の瞳は暗く、俺はこの理解出来ない男を憐れにすら思う。母親という大いなる呪縛がとけてしまった先輩は、今まで通りになんでも出来るしかっこいいけど、いつも百歳の老人のように疲れて見えた。あらゆるものが喜びも悲しみもなく通り過ぎて、生きることに何の期待もしていないようで、ぞっとするし、かといって放っておくのも居心地が悪い。
 そんな人が暗い目を瞬かせながら話す「葵」という女の子に、明るく健康な印象があるはずもない。聞いている限り虐待の痕と思われるそれを他人の目に晒しながら、それをなんとも思わず、言わず、君久先輩を陥落させたその女の子のことが、俺には少し不気味に思えた。この頃君久先輩の目はいつも遠くを見ていて、その先には架空の「葵」がいる。架空であってほしい。これがもし実在だったら、もっと怖い。その女の子が野放しで生きなくちゃいけないことも、自分の半分以下の年齢の少女に執着を持つ男も。
「だって先輩、誰にでもその子のこと話して、どうするんですか? もう会えなくなっちゃったんですよね?」
「葵をどうにかしてくれる他人が現れるのを、待ってる」
「先輩ほどの完璧超人になんにも出来なかったんですよね?」
 言いながら内心、そんなに先輩の対応はちゃんとしていなかったけど、と付け加える。虐待をされている子がいたら声をかけて、しかるべき機関にわたして、健全な人生が送れるようにする。教師の役割は勉強と同じくらいそういうものだと思ってたし、先輩がその子の境遇を知っても自分だけでどうにかしようとしたのが、ちょっと信じられなかったのだ。教師や親の役割について、君久先輩の感覚は信用出来るものだったから。
「お前、俺がひとつでも正しく何かしたなんて、思ってないだろ」
 俺の考えを見透かしたように、君久先輩は皮肉っぽく片頬をゆがめた。「……はは、いや」と誤魔化すように笑ったけど、こういうところは本当に勘が鋭くて話の早い人だ、と改めて感心してしまう。
 なめたけと大根おろしをのせただし巻き玉子を食べながら、君久先輩は「間違ってないから、いいさ。……自分でどうにかしたかったんだよ」と吐き捨てるように呟く。
「自分で」
「そう。自分で。こんなに好きなんだから、自分で相手をどうにか出来るって、信じこんでた。そんで、葵が助けて欲しいのは俺じゃないってわかって、何も出来なくなった」
「正しいことがわかってれば、正しく動けるもんだと思いますけど」
「はは、人間がそんなに正しく動くかよ。脳なんて簡単に狂うし壊れるものが、体動かしてんだぞ。人間なんてそんなもんだ。生まれつき、馬鹿に、決まってる」
 先輩はここにいない何かを嘲るように、嫌悪するかのように笑った。やけに実感のこもった言葉で、この人が狂った他人に生活を縛られていたんだったなあと思い出す。他人のことを絶対に信用していないのが声に滲んでいて、不名誉な含蓄がある。この人はいつも、気安いけど距離があって、誰にも理解出来ない孤独を抱えている。先輩が語る体温のある話は「葵」のことだけだ。それすらも失ってしまった痛ましい男。尊敬はしているけど恐怖もある。
 俺はそれでも、「そうですかね」と往生際悪く答えて、自分の玉子に手をつける。
 君久先輩の瞳は薄暗く、恋というには深すぎて、愛というには汚れすぎた感情にまみれていた。悪夢を見続けているような眼差し。俺もなんでこの人と飯を食ってるんだろうな、と思う。物珍しくて飽きないとかそういう理由かもしれない。退屈しないのは確かだった。

 うちの大学は夏休みが長くて、三年の実習期間がそこにすっぽり入るようになってる。ほとんど教育学部しかないからだ。二年までは夏休みが長いことを楽しく感じてたけど、いざ自分の実習が始まると、全然時間なんて足りなかった。先生と呼ばれていたって所詮大学生である俺は、慣れないスーツ姿で都内の高校に通いながら高校生たちがひしめく中を過ごしていた。俺がホームルーム等を一緒になって見ていたクラスはいじめなんかの問題もなく、ごく普通に和気あいあいとしていた。はじめの数日は何事もなく見えるだけかもしれない、子供の問題は意外なほど水面下で育つものだ、と目を皿にしていたけど、少しずつ緊張はほどけてきた。必死さを保つのに疲れたのもある。
 高校二年生の生徒たちがなんだか随分子供に見えるな、と最初は思っていたけれど、やっぱりこの頃の生徒は目敏かった。俺が緊張しなくなってからのほうが、気軽に質問したり、五分休みに話しかけてくれる。伝わるもんなんだろうな、と思う。先生として来ている以上同年代気分ではいられない、と気を引き締めていないと、簡単にゆるんだ顔を晒しそうだった。時折へんな百面相のあとにかしこまるとこも含めて、俺は生徒から好評だった。多分。本当のことはわからないが。
「日吉、起きろ起きろ」
 クラスにいじめはなく、素行のいい生徒ばかりが集まったいい空間だったが、どうも気にかかる子がいた。日吉祐樹だ。不良ということはないが勉強が得意なタイプではないらしく、それを抜きにしても、授業やホームルームで寝ていることが多かった。短い黒髪にきちんと着られている制服は虚勢ではなく真面目な学生の姿だが、どうにも疲れているような、絶えずなにかに消耗しているような顔をしていた。教室でじっと、ぼうっとしていることが多いので、俺は学校じゃないところに問題があるのではないか、と思っていた。
 帰りのホームルームのあと、俺が軽く肩を揺すると日吉は「うん……」と目を擦りながら顔をあげた。狭い教室の中はあちこちで小さな噴火が起きているようにざわめいていて、くったりと寝続ける日吉は目立たない。声をかけるかは迷ったけど、毎日そんな様子なので八日目にしてようやく踏みきった。
「あ、先生」
 寝ぼけて若干舌足らずな声で俺を呼び、にこっと微笑む。どことなくほうけていることが多いのに、不思議なくらい日吉の笑顔は整っていた。笑顔として、整っている。愛嬌があると言うのとは少し違って、人並みより随分綺麗な顔立ちをしているというのに、いつもどことなく悲痛なのだ。可愛そう、という言葉が自然と思い浮かんでしまうのは、さすがに俺の色眼鏡かもしれない。
 美人というだけなら、同じくこのクラスにいる冴木瞳のほうが言葉通りの容姿をしている。多少無愛想ではあるがぞっとするほど整った目鼻立ちで、君久先輩より綺麗なくらいかもしれない、と感心すらしたものだった。成績も申し分なく素行も問題なく変な親の噂も今のところ聞かない冴木のほうが、先輩よりもちゃんと生きられるのだろうが。
「大丈夫? 疲れてそうだけど」
「あ、うん……大丈夫です。ちょっと眠たくて。ごめんなさい」
「俺に謝ることはないけど。疲れてて辛いのは日吉だろ?」
 実習生とはいえ先生と呼ばれていたから、俺は生徒の問題を気にしたし、なんとかしてやりたい、という思いもあった。器用に生きてこれたのは俺が比較的親と良好な関係を持ち、やりたいことを否定されずに来たからだ。自覚があるから、家庭にしろ学校にしろ不和を抱える子供のことを、なんとかしてやりたい。青臭いほどの正義感をもって、俺は教師を志していた。それもあって君久先輩があの厭世的で寂しげな眼差しのまま教師になろうとしているのが、ちょっと理解出来なかったのかもしれない。
 日吉は弱々しく笑って、「ありがとうございます」と首をかしげる。庇護欲めいたなにかを強く刺激される、整った笑顔に、俺は口を閉じた。
 いつの間にか鞄を肩にかけた葛が傍らに立っていて、「日吉」とやわらかな声で呼びかける。「楓」と返事をする日吉の笑顔が、嬉しいような切ないような歪みかたをした。
「ども、先生」
 葛は人好きしそうな笑顔で手をあげて挨拶する。写真を撮る趣味に成績ごとスキルを振ってしまったような生徒だが、どこか憎めない。そういう子供が必ずいるもんなんだよな、とここの担任教師が笑っていた。
「あぁ、葛。悪い、邪魔したかな」
「いや全然。気にしないで。また明日」
「また明日」
「せ、先生。また明日」
「うん。また」
 日吉は慌てて鞄を持って、足早に葛と教室を出ていく。俺は慣れないスーツで肩がこってしまったような気がして、軽く腕を回す。真夏先生、と女子たちに声をかけられて振り向く。
「彼末先生って呼べよ」
「みんな真夏先生じゃん」
 若干童顔で威厳がないせいなのか、俺は大抵の生徒から真夏先生、と呼ばれていた。一部、それこそ冴木とかには彼末先生と呼ばれていたけど。別に矯正させるまでもないと思って、やんわり受け流している。どうせ数週間の間柄なのだ。
 いざ教育実習まで来てみて、実際に生徒たちに触れながら生活してみると、教師というのは思ったより無力だった。案外、なんにも出来ない。俺の理想は砕けていなかったけど、講義とゼミと実習と、少しずつ現実的に手の届く範囲というものがわかってきていて、俺もいつか惰性でいじめを見逃してしまう教師になるのかと、軽く身震いがした。そうはならない、と自分に言い聞かせた。どれだけ疲れていようと、そんなに惰性で生きてしまうくらいなら教師にはならないほうがいい。俺は俺に言い聞かせた。そうは、ならない。
 脳裏に君久先輩の冷たくくぐもった、亡霊のような声がよみがえる。
(人間がそんなに、正しく動くかよ……)
 俺は振り払うように笑顔をつくって、生徒たちに向き合う。
 日吉のやけに寂しげな笑顔が浮かんで、すぐに消えた。

 実習も終盤に差し掛かったある日。
 学校の最寄り駅から少し離れた住宅街を、ぷらぷらと歩いていた。あと数日でこの景色を見れなくなるんだなあと思って、なんとなく真っ直ぐ帰る気にならなかったのだ。先生方にいろいろ教わったり実習生同士で話し込んでいるうちに日は暮れてきて、秋の寂しい気配が夕の道に流れていた。
 騒音をたてる住民もいない、アパートとマンション、一軒家がごく普通に立ち並ぶ住宅街を、特別な感慨もなく歩く。近くにあるらしい安いと噂のスーパーで、なにか買おうかなと考えながら。
「――ごめんなさい、ごめんなさい……」
 不意に、悲痛な囁きが耳に入ってきた。声のほうに顔を向けると、いかにも不機嫌そうな男が、高校生ほどの少年の手を乱暴に引っ張っていた。通行人は他にいない。腕が千切れてしまうのではないかと思うほど荒々しい手つきで、引きずられるように歩く、少年の顔に見覚えがあった。
 心臓が力一杯殴られたように、大きく跳ねる。
 日吉祐樹だった。
 怯えるように引きずられていく日吉と男の影が、不気味に寄り添いながら震えている。夕陽は二人の影を俺の足元まで容易くのばした。細く小さな影になった日吉の頭が、俺の靴先にのしかかっている。
 俺が言葉を失って立ち尽くしていると、日吉は「ごめんなさい、お父さん、ごめんね……」と小さく呟きながら、視線に気づいたらしく顔をあげる。「せん……」ひたと俺を見て、酷く傷ついたような、羞恥に震えるような表情を浮かべて、息を飲む。見ている俺のほうが罪悪感を覚える顔だった。
 それから、潰された花のように微笑んだ。
 夕陽がぐっと、突然傾きを増したように赤らむ。
 日吉の笑顔が真っ赤に染まった。
 ――内臓を穿たれたように腹が痛い。
 目眩がする。
 吐きそうなほどに、綺麗だった。
 どうにかしてやりたい、と思った。
 俺は覚束ない足取りで一歩を踏み出し、「日吉……」と囁く。父親らしき男には聞こえていなかったが、俺を見つめる日吉には届いたらしい。ゆっくりと首を振って、申し訳なさそうに首をかたむける。大丈夫です、と唇だけが動く。
 警笛が頭の中で鳴る。急に足元が大きな穴になって、奈落へと落ちていくような心地だった。今まで信じていたものも願っていたものも変わらないまま、自分のどこかが致命的におかしくなった感覚。花が潰されるような微笑みが、俺の心臓を粉々にしていく。息も出来ないほど、自分のことが恐ろしい。
(何も出来なくなった……)
 先輩の言葉が、冷たい実感を伴って頭に響く。
(……こんなに、好きなんだから)
 日吉は俺にすまなそうな笑顔を向けたまま、父親に引かれて歩いていく。よく見ると、腕にかすかな痣があった。冷水を浴びるような絶望が押し寄せる。
(自分で相手をどうにか出来るって、信じこんでた)
 どうにかしたい。
 どうにかしてやりたい。
 それが破壊願望なのか、救ってやりたいという感情なのか、一瞬判別がつかなかった。どうにかして、日吉とどうなりたいのか考えたら、足が止まった。どうなりたい、なんて想像が一瞬でも出てきたことに悪寒がする。不幸で可愛そうな少年である彼に、自分が抱いた欲。おぞましくて身震いがした。
 俺は何も知らない、恋も知らない幸福な大人だったから。
(そんで、葵が助けて欲しいのは俺じゃないってわかって)
 日吉祐樹の不幸は、あの父親から生まれている。
 明白だった。
 父親が日吉にどこまで、なにをしているのかはわからない。男親だからといって性的虐待がないとは限らないし、暴行以外にも食事を与えなかったり、過剰な束縛をしている可能性もある。いろんな子供のいろんな事例を見た。調べて、学んで、叩き込んだそれらが何一つ役に立ちそうもなかった。
 俺が、あの少年をどうにかしたいと思ったせいで。
 あの少年が手に入らない自分のことを、嫌だなと思った、せいで。
 正しいことがわからなくなった。
(何も、出来なくなった)
 頭が鐘になってガンガンと叩かれているように、視界がゆがむ。日吉の微笑みがゆがむ。日吉は俺を見つめたまま、ゆっくり遠ざかっていく。
 彼の姿が路地の角に消えて、呼吸をした瞬間に俺は自覚した。

 これは恋だ。
 浅ましい、誰も救わない、恋欲だ。
 真綿で首を絞められたように苦しくなって、俺は途方に暮れその場に蹲る。瞼の裏で日吉が微笑んでいた。自分がどんな風にして生きていけばいいのかわかっているのに、自分の正しさを見失った。ほんの一瞬で、俺は心底間違った人間になった。
 ぱっ、ぱっと音がして少しだけ目を開けると、街灯が点滅しながら薄暗い道を照らし始めていた。日が、暮れたのだ。