Nagaku Takashima – she is
僕らは墜落した。
きっかけはあると思いたいが、明確なものはないのかもしれない。僕らは最初から終わっていた。爆散する鮮烈な夏にも、いつまでも降り続く雨にも、なれはしない。僕らは自分たちに、どこにも行かない電車の名前を付けた。そしてその通り、僕らはどこにも行けなかった。乗り込んだ車両の底は抜け落ち、僕らは一人として水中で生きていけない。
天才、高嶋永句ははじめギター一本と自分の歌声だけを伴ってステージに立った。僕が大学四年の六月、その夜は雨が降っていた。地下のライブハウスに天候なぞ関係ないが、晴れとか曇りじゃここまで記憶に残らなかっただろう。帰り道、途中で傘をさすのをあきらめるほどの霧雨だった。濡れていく服と冷えていく体に反して、頭の隅が焼けそうに熱かったのを憶えている。
複数のアーティストがバンドもソロもごったになっているライブで、彼女は二番手だった。先程まで三人組のバンドが空間を盛り上げに盛り上げていたので、客のほうはまだ余韻に浸っていたり、聴きたてほやほやの演奏について言い合っていたり、御世辞にも静かとは言えない。まぁ、よくあることだった。二番手のソロである彼女はアコースティックギターを構え、マイクの位置を自分に合わせて高くしてから、青いステージライトの中で笑う。
ギターがささやかに開幕の合図を鳴らすと、その場にいた多くがステージに顔を向けた。
「こんばんは、高嶋永久です」
透明感のある声が、空間に響いた。
彼女は双子の兄と同音異字の名前で、音楽活動の際には兄の漢字を使っている。このときはタカシマナガク、という硬質な響きも簡素な自己紹介も特に気に留めることもなく、ステージの上を見つめていた。僕はその日演奏の予定がなくて、知り合いが出るというのでチケットを買って訪れていた。知り合いの出番は後半だし、挨拶も激励も済ませていたので、それはそれは気楽なもんだった。
真っ青に照らされた女は、細く束ねた黒髪を尻尾のように揺らしながらメロディを奏でだす。挨拶の前の数音はイントロの一部だったらしい。不思議なほど顔にかかる影が強く、下から顔立ちを把握するのは難しかった。隣に立っている年若い男が、この一曲に命でも懸かっているのかという絶望的な形相で、彼女をがめつく見つめているほうが気になった。
周囲を軽く見渡すと、静かだけど満足そうにリズムをとっている女とか、ソロだからって興味薄そうにスマホいじりながらたまにちらちらステージを見てる男とか、そういう見慣れた反応の人たちに交じって、時折妙に気持ちのこもった、真剣な目を向けている聴き手がいた。
歌声はのびやかで安定していて、声量も些細な起伏の表現も良い。初めて聴く僕でも、彼女が音も緩急も外さず、むしろ求められるものをさらに膨らませて歌っていることは、なんとなく察した。インディーズだから歌が上手いと意外、ってことは無論ないが、彼女の歌は頭一つくらい抜けている気がする。歌唱は門外漢なので、本当に気がする程度だ。
三曲歌い終えた高嶋永久は「ありがとうございました」と首を傾けて微笑み、小さく会釈する。そこで青いライトが剥がれて、彼女が随分と整った目鼻立ちをしているのがわかった。ほかの参加者と比べると若干曲数を少なく感じたが、観客からの拍手が軽くなるわけじゃない。良いものを聴いた、と素直に思った。
それからふたつ後、高嶋永久はもう一度ステージに立っていた。
四人組のバンドにまじって、今度はドラムセットの内側におさまっている。バンドメンバーとなにか打ち合わせをしている顔が、本当についさっき見たばかりのそれなので驚いたが、すぐにドラムも出来るのかと関心した。自分がドラムをそれなりにやっているし、自信と呼べるだけの技量もあるつもりだったから、さっきと違って同じ土俵にいる彼女をどこか上から見ていたのだ。
喋るのも歌うのも楽しむタイプのギタボが、楽器を掻き鳴らしながら名乗る。もうひとりのギターとベースも自分より楽器に挨拶をさせて、ギタボが手ぶりつきで紹介する。
「今日のドラムはサポートでえす。ヨシノが風邪引いちゃってさ。はい、さっきぶりの高嶋永久ちゃん!」
ヨシノ、というのは本来のドラマーだ。大袈裟な手ぶりを伴い紹介された高嶋永久はやはり特に何か話すわけでもなく、スティックを持ったままの手を振って笑い、タムを叩き、
「――え、」
一瞬、全身が焼けたように思った。
鋭く刻んだ魂を殴るような音は一瞬で、彼女は嘘のように穏やかな笑顔で「よろしくお願いします」と口にした。その後のMCがまともに聞けないほど、胸が痛かった。裂けそうに鳴っている心臓がうるさくて、服の胸元を握りしめる。夢を見ているみたいだった。嫌な汗が全身から噴き出す。
そして心臓の絶叫が終わるより早く、僕は悟る。
思い知る。
これは夢じゃない。
どんな悪夢よりも酷い、現実だ。
振り返っても振り返っても、そこから数十分の記憶は混濁している。よほど堪えたのだろうし、おかしくなっていたのだろう。彼女の演奏にはそれだけの価値と、力があった。
なまじ知っているバンドで、自分たちの技量では若干無茶な譜面を楽しむ主義なのもわかっていた。ドラマーの演奏も知っていたから、その違いが残酷なほど理解出来た。そのバンドの趣旨から外れるほど、彼女のドラムは正確だった。ベースやギターの様子を見ながら緩急をつけ、リズムはただの一度もブレない。ソロではよりもって顕著だった。細い体のどこからそんな力が出ているのか、涙ぐむほど衝撃を受ける僕のことなどお構いなく、彼女は終始ぼんやりと微笑んでいるだけ。
まさしくそれは理想、という言葉が適切だった。
理想。
僕がなりたい、演奏者。
漠然と画面の向こうに、遥か遠いステージの上に描いていた理想像を、高嶋永久はいとも容易く体現していた。
努力さえ積めば勿論、ヨシノだって僕だって、ある程度のことが出来るようにはなるだろう。余程センスの差がなければ、重ねているうちにいつか上達はする。これだけのボリュームと正確さも、プロの演奏なら普通に見るし、インディーズにだって少なからずいる。
じゃあ、さっきのギターは?
さっきの、歌声は。
サポートで、大した練習時間もなく、急遽枠を埋めるために呼ばれた、その演奏は。
焦りなどなく、平然と暴力を吐き出し続けるその姿は。
室内をチカチカと照らす光に、目眩がした。立ったまま記憶を失っていたと言われても納得する。演奏の最中からずっとろくな呼吸が出来ていなくて、酸欠だったのだろう。酒と煙草の匂いによろめきながら、ステージを降りたさっきのバンドを探す。次のバンドはセットするものが多くて、時間がかかるらしかった。今が一番探しやすいと、ろくに働いていない頭でそう思ったのだ。
「今日は急にごめんな!」
話し込んでいるバンドと他の数人は、すぐに見つかった。高嶋永久もギタボと向かい合って、いえいえと謙虚な態度で応えていた。
「いやぁ、あのソロヨシノにも聞かせたかったわ! きっとすげー発破かかるよ」
ギタボは心底うれしそうに彼女のことを賞賛する。気のいい奴なのだ。彼女との力量差があることを感じても、それをプラスに変換出来る。全員がそんな人間だから、このバンドは高嶋永久をサポートに招けたのだろう。
「そうですか? わたし、やっぱりここにはヨシノさんのドラムがいいなって思いましたよ。とりあえず譜面通りに叩いちゃいましたけど、浮いてる気がして申し訳なかったなって」
「あはは、それは俺達が追いついてねえのよ。ぶっつけで永句ちゃん責めるようなことしないって。俺達の場合、元から完全演奏出来るって前提でもねえからさ……」
お世辞だとしたらあまりにも残酷な彼女の言葉は、しかし嘘偽りのない本心なのがよくわかった。しみじみと、ここにはいないドラムまで、バンドの演奏を思い浮かべているであろう口調。歌声よりもひっそりと響く、澄んだ水のような声をしていた。
すぐ近くまで歩み寄ると、面識のない彼女のほうが先に僕へ顔を向ける。そこで僕はようやく、彼女が平均的な男くらいの身長なのだと気づく。見上げる首が多少痛い。
「お、渋川じゃん」
「どうも。……この方、さっきのドラムの?」
意味もなくしらを切る僕に、ギタボは「そうそう」と屈託のない笑顔で頷いた。「はじめまして」と丁寧に挨拶する彼女に、僕も会釈した、と思う。
僕の混乱も狼狽も知ることのない二人は、片方の知り合いであり片方と同じパートを担当している僕に、あれこれと情報をもらしてくれる。
「今日の今日だったからもぉー誰に頼むよ? 終わりか? ってなってたんだけど。永句ちゃん、前に別んとこでドラムやってたことあるって聞いてたから、ダメもとで」
「そんなに長い間じゃないんですけどね。今は人前で弾くとなると、大体アコギかピアノです」
「他にも出来んの?」
「まぁ……人と合わせて弾いてたのはちょっとですけど。ベースとか」
「へぇ! じゃあ次当欠出たら呼ぼうかな」
「ないことを祈ってますね」
自分がどんな顔をしていたかわからないが、そのときは特に咎められたり疎まれていると感じなかったから、それなりに取り繕えていたのだろう。逆に、殴られた衝撃でおかしくなって、感情と表情の接続が狂っていたのかもしれない。今更僕には知る由もない。
別の知り合いと話していたバンドの残り二人もやって来て、ドラマーの体調だとか、さっきの演奏だとか、彼女のソロのほうの音楽だとか、途切れることなく会話を続けていく。僕も相槌はうっていたし、彼女の音楽そのものについては素直に良かったと伝えた。素直に、良かった。その言葉にすら劣等感が生まれ始めていた。手の中に増えていく彼女の情報は、ひとつとして僕の気持ちを軽くしない。
「――永句」
ここで、ごく普通の男くらい背丈のある彼女を、更に見下ろせる背の高い男が入ってきた。僕とは頭ひとつ分くらい差がある。首を痛めながら見上げると、目の前にいる高嶋永久とよく似た顔の青年だった。彼女が「兄さん、来てたの」と感慨なさげに呟く声は、今日聴いていた中で一番気安い響きだった。
「お、永久くんじゃん! おひさ」
「お久しぶりです」
「……この方も、知り合い?」
無粋な横槍に眉をひそめることもなく、訊かれたギタボは「そうそう!」と陽気に肯定する。バンドのベーシストが柔らかな声で、「永久くんは永句ちゃんの、双子のお兄ちゃんなんだよ」と説明した。
「ナガクくんと、ナガクちゃん」
同じ音をそのまま反芻する僕に、周囲があぁ、と一拍かけて納得を示した。彼女が代表して口を開く。
「わたしと兄さん、名前の読みが同じなんです。漢字は違うんですけど、音楽活動のときは兄さんの字を使ってて」
「じゃあパンフにあった、永久って書くほうが」
「はい。戸籍的には兄さんの名前です」
後々考えてみても、不思議な名前だし、音楽のときは兄貴の名前って、それも不思議だと思う。音楽において彼女自身はどこにもいないみたいで、兄貴の存在を食ってるようにも感じられる。
楽器を背負うでもなく、恐らくソフトドリンクだろう液体の入ったグラスを持って、兄の方のタカシマナガクはなんとも言えない表情を浮かべていた。穏やかに微笑んでいる妹のことを、見ようとはしない。
心の中で暴れ狂う嵐に、少し慣れようとしていた。息は出来ないままだけど、どんな苦痛も続けば麻痺する。僕には手の届かない領域。彼女はきっと、才能人だ。才能、という暴力的に思考を放棄した単語が浮かんで、あぁそうなんだ、仕方がないんだと、頷きそうになっていた。
「永句ちゃんは永久くんのとこで、ドラムやってたんだよね」
ベーシストが何気なく発した言葉に、勢いよく顔を上げる。
おさまりかけていた酷い熱が、火をつけたように戻ってくる。名づけ難い感情が、吐き気がするほどの勢いで迫り上がり、目の前がちかちかと点滅した。空間が、僕の精神とは関係ないところで明るさを次の演者がステージに上がったのだ。話を切り上げようとバンドのメンバーが尻すぼみに会話を閉じていく。お酒をとりにいこうかなと、妹のほうのタカシマナガクがカウンターに向かう。
どこか罰が悪そうに口角を上げて目を逸らしている青年に、僕は一歩を踏み出す。
衝動だった。
自殺する人間は計画的でない人のほうが多いと言うが、僕の行動もそうだったろう。言葉を選ばず言えば、自殺のほうがまだよかった。劣等感に苛まれて、自分の足元が見えなくなって、一人で勝手に死ぬなら。そっちのほうがよほど。
「あの」
呼びかけに、青年――高嶋永久はきょとんと僕を見下ろした。彼が「……はい?」と小さく呟くのを、彼女は見ていた。歩みを止めて、僕と自分の兄を、見つめていた。
明滅するライトの中で、次のバンドが音を調整している。
今でも後悔する。
絶望しているし、そんなことしなければ、と思う。
心底、自分を軽蔑する。するけど。
それ以外になかったとも、思ってしまう。
衝動が、僕の口を動かす。
「バンドを、組んでもらえませんか」
音楽としての高嶋永久――高嶋永句は、まるで遥か遠くの水平線を眺めるような眼差しで、僕らのことを見つめていた。
海の底を走りたいと思ったのは、僕だった。
息も出来ない場所で、足掻けると思っていたのだ。
20220907
>深海線