白波

 寝過ごした日曜日、起動に時間がかかる体を引きずってリビングに降りると、妹がピアノを弾いていた。

「……父さんたちは」
「あ、おはよう兄さん。お父さんたちは買い物」
「へぇ、そう」

 双子の妹はきっちり服を着替えて髪もまとめて、俺を振り返らないまま返事した。
 鍵盤の上を流れていく指を一瞥して、ダイニングに向かう。テーブルの上にはきれいにラップがけされた昨日の残りの豆腐ハンバーグと、アボカドやらベーコンやらのサラダが置いてある。多分キッチンには味噌汁も残ってるだろう。ごはんで食べたいな。

「わたし、目玉焼き焼こっか」
 ピアノから視線も手元も注意も逸らさず、妹が呟く。「んー」食べたいとは思ったけど、「いや、足りそうだから平気」この音が途切れてしまう方が嫌だった。いつもなら焼いてもらうか、俺が作ろうとしてベチャベチャになって妹が呆れて、焼いてもらうかなんだけど。

「そっか」
 鍵盤の上で指を踊らせて、妹は完全に俺から遠ざかる。音量のツマミを少しずつ回すように、小さな鼻歌が聞こえ出す。俺の邪魔にならないように、としているのだろう。冷凍ごはんをあたためている最中なんか、かすかな歌声はほとんど聞こえなかった。
 俺は妹に限らず誰が演奏の最中でも、生活音をたてることに気負いとかしない。ライブやコンサートだったら当然控えるけど、生活するための空間に流れる音楽を最優先するほどストイックじゃない。自分が練習しててもそこまで気にならないし。
 妹は俺に限らず、誰が生活を送る場所であっても、聴き取る音楽を優先する。正反対って言えるほど、感覚が根っこから違う。
 俺にとっての音楽は賢くて、優れてて、強くて、正しくて、善いものってわけじゃない。万能じゃないし、万全じゃない。音楽で病気は治せないし、財布の中身は増えないし、夢は叶わないし、才能は育たない。生きている上に音楽がのってる。俺にとっては。
 妹と音楽への感情を比べたり、ぶつけあったりしたことはない。物心つく前から一緒に楽器を触ってたけど、俺は音楽でも言葉でも心でも、妹とわかりあえると思えたことなんてないから。隣で生きてきた年数は妹の理解度と比例しない。
 彼女の曲にはピアノで締めくくられるものが、そういえば少なくないなあとか、そう思って、感じられるのをちょっとだけ、みんなに誇れるくらいだ。

「……これ、原曲も全部ピアノ? めっちゃいい」
「ピアノじゃない音もあるよ。アレンジだから。今度これをライブに出そうと思ってて」
「へぇ。あ、ここの音絶対なくさないでほしい」
「兄さんの希望に沿ってるわけじゃないんだけど……」

 

20220901
春波をくだく真昼 >深海線