畢竟よ

 

 高嶋永句という女の子がいる。
 彼女はとても音楽が好きで、好きで、それだけでこの暴力みたいな海を、海みたいな暴力を、泳いできた。

 一方、俺こと天野歩は、泳ぐことを諦めた人間だったと思う。
 だって、俺が探しているものはこの世にはないのだから。俺の手の届く範囲しか、俺のこの世じゃないんだから。身の程を弁えて、それでも何かに手を伸ばしたくてずっとずっと音楽をしている。時々泳ごうとしては後悔して、流される方がいいと思い至って、ここまで流れてきたのだ。
 バカみたいな言葉で表すのであれば、伝説になりたかった。伝説の近くでそれを観測したかった。楽器にベースを選んだのも、音や役割が好きだったことは勿論として、この感性が後押しをしていたのかもしれない。二十七歳で死ぬことで逆説的に伝説になるみたいな言説は誰のものだったか。残念、俺は死にたくなんかない。一生音楽をしていたい。同じぐらい、音楽なんか一生したくない。

 音楽をひたすらにやっていく彼女のことを、貴いものだと思っては、いた。
 そうじゃなけりゃ、日宵(ひよい)ちゃんやゆらちゃんの手伝いとはいえ、ここまで関わろうともしなかっただろう。残酷な才能を持っているんだろうことも、彼女の身の回りの出来事を挙げ れば理解に容易い。その歌だけではない。どんな楽器に触れても思うままに演奏ができてしまうし、作る曲も必ず誰かの胸にとすんと刺さる。音楽の全てが、彼女のことを好きだった。
 彼女の周りは、勝手に狂っていった。つい先日だって、俺たちの目の前で彼女が所属していたバンドは蒸発した。音楽なんか一生やりたくなくなってもいいだけの材料が、溢れすぎていた。それでも高嶋永句は、音楽を続けた。呼吸をするよりも、ずっと歌うことを望むように。音楽が彼女を好きな以上に、彼女は本当に、本当に音楽が好きだった。それだけのことが、こんなにも、……こんなにも。

 俺にとっての最高の日も最悪の日もなんでもない日も、多くは雨が降っていた。
 彼女は言った。海みたいな日だって。それだけでもう、俺は酸素なんかいらなかった。

 俺と永句は、全然普通の、どうでもいいとさえ言えるきっかけで出会った。
 ライブハウスで人づてに知り合うとかいう、普遍的で陳腐でありきたりなやつだ。こうなってくると、この非劇的感が最早悔しいんだけど、それはそれとして。煙たくない日だったし、雨も降っていなかったし、花も咲いていなかったし、俺は落ち込んでもいなかったし、かといって特に楽しくもなかった。強いて言うなら何事もなく穏やかだった。波打つ引力の存在しない、湖のように。

 下北沢のローカルなライブハウス、リリクという箱。そこまでデカくもなく、かといって小さくもない、スタジオ付きの感じのいいライブハウスだ。店長と二人のスタッフと、どうしても必要なときは数人のバイトが回している。
 随分前からお世話になっているということもあるが、今所属しているバンドの俺以外の二人がかなりこの箱に縁深いこともあって、色々なイベントを覗きに行ったりという機会が格段に増えていた。バンドメンバーの一人はゆらちゃんといって、ドラムをやっていて、ライブハウスリリクのスタッフの一人だ。もう一人は響(ひびき)という名前で、ギターボーカルをやっている。こっちはこのライブハウスの居候だ。スタッフではない。全くない。このあたりの時代背景的な話は追々出てくると思うので、割愛。

 その日は、リリクの店長こと菫(すみれ)さんとマブダチの五十九歳のおじいちゃんがやってる、音楽をゆっくり奏でる会みたいな企画の日だった。第何回だかはよく知らない。じいちゃんは三味線とエレキギターが好きで、最近オカリナを始めたらしい。と、ここまで情報出したけど、こいつはモブです。
 カウンターのあたりでスタッフやってるゆらちゃんと話してて、響は寝てたかおかしくなっていたかの二択だが、その場にはいなかった。二杯目のドリンクを頼み、三味線の音に耳を傾けていたときだ。ゆらちゃんに手を振って元気よく近付いてくる日宵ちゃんの後ろを、ぴょこぴょこと着いてきた女の子。それが永句だった。

「この子、タカシマナガクちゃん! 今度さ、俺と一緒の企画に出るんだ」
 そう言って日宵ちゃんに紹介された彼女は、小さくお辞儀をして自己紹介を軽くした。アーティストとしての活動名は永久(ながく)と書くのだけど、本名は永に俳句の句、だそうだ。秒で本名を明かしてしまうあたり、そりゃ日宵ちゃんが引っ張ってくるよなあ、と思いながら俺も名乗った。ネイミーっていうバンドでベースやってる、テンポっていいまーす。よろしくね。
 日宵ちゃんはこの企画に毎回出てて、じいちゃんの三味線と合わせて何かしら歌ってる。彼の出ている企画に熱心に行くことは稀だけど(単に音楽の好みの問題だ。日宵ちゃんの歌なら、彼の働いているカフェに聴きにいけばいいしね)、この空気は結構好きで、よく顔を出すようにしていた。
 高嶋永句の第一印象、普通に美人。なんかめっちゃ困ってる。背が高いのだけど、その雰囲気もあってか日宵ちゃんの圧もあってか小さく感じた。日宵ちゃん無理強いしてんじゃないの? そんな感じ。聞くところによれば、全然別の箱で知り合ったらしい。
 日宵ちゃんは「面倒くさそうなシンガーソングライターおじさんに絡まれていたところをしばいた」と言っていたけど、今思い返すと永句のほうはノーダメだったと思う。おっさんには悪いけど、狙ってた可愛い美人のシンガーソングライターはノーダメだったし、割り込んできた口煩く柄もクソ悪いシンガーソングライターにはガチで殴られるしで最悪だったと思う。最悪だっただろうから、二度とライブハウスにはこないでほしい。
 日宵ちゃんは世話焼きなところがあるから、その日彼女が売っていたCDが爆安過ぎてそれにもキレて(これは永句にとっては最悪だったかもしれないけど、必要だったと思う)なんやかんやとしているうちに、ここまで引っ張ってきたのだそうだ。まあまあ、感謝した方がいいのはわかるけど、普通に悔しいの方が勝つわ。

 彼女が未成年で、ちょっと不慣れそうで、さっき言った通り三十曲入りアルバムを三百円で投げ売りしていたエピソードもあって、ことあるごとにゆらちゃんや日宵ちゃんが可愛がりながら世話を焼いていて、その流れで俺もよく手伝ったりなんだりってしていた。
 付かず離れずというか、付かず、またそして付かない、程度の距離だ。俺は他人とそれ以上の近さになりたいと思わないし、それは自分と音楽の距離でさえもそうで。自分のしたい音楽はその程度だと思うことにしていた。

 その距離が、あの日、一瞬で崩壊した。

 墜落した。自分たちの最悪のフライトのことを離陸すると笑ったことがあるが、そのフライトが一旦どうでもよくなるような落雷だった。雨が降っていた。降っていなかったら、彼女はきっとそこで歌わなかった。

 俺たちネイミーも出て、永句も出てて、日宵ちゃんも出てる……とかいう、なんだか実家みたいな日だったと思う。様々なジャンルのバンドが入れ替わり立ち代わりで演奏するような、慌ただしく騒がしい詰め合わせの日。
 そうやって人数が集まった時には、大抵ライブハウスで中打ち上げがある。特にリリクはその辺りにも柔軟に対応するタイプで、時間いっぱいまでの貸し出しをプランに入れられる仕組みもある。その日も例外ではなく、多くの関係者が残っての打ち上げとなった。
 リリクは基本、イベントの間、フロアは禁煙だ。しかし、打ち上げになると近隣への騒音なども想定して、室内での喫煙が許可されることが多い。いろいろなニーズがあって、店長も大変だろうと思う。
 部屋の中に煙とライトが存在し、フロアの全体がスモークを焚いたステージのようだった。ステージとなってしまったフロアでは、目まぐるしく、たくさんの人と人が会話をし、情報を交換し、次の発表の場を作っていた。
 そんなもんなくても天性のカリスマや最高の音楽で孤高に伝説になれるような存在だったらよかったのだが、生憎そんな都合のいい存在はいないのだ。

「テンポ、大丈夫か」
 と、そんなこと響に言われちゃおしまいである。
 打ち上げに入ったけれど、響はただ壁際の隅で人を眺めていた。骨と皮で構成されたような小さい身体をぴったりと壁につけ、目つきも顔色も最悪なまま、人を観測している。
 こいつは極度に他人とのコミュニケーションを取らない。というか取れたもんじゃない。人間らしさの全てを置いてきた分、ギターだけは弾ける。簡単に廉価版の表現で言えば社会不適合者、その称号を欲しいままにできるタイプだ。
 ちなみにネイミーのリーダーはゆらちゃんなんだけど、彼女はリリクのスタッフでもあるので慌しい。自然とうちのバンドのコミュニケーション担当は俺になる、というわけだ。
 今日もネイミーの名前に対して、多くの演者が挨拶を交わしてくれているが、応対は俺がしていた。
 人との対話は嫌いじゃないし、俗に言う感情労働ってやつをそこまで苦だと思わないでこなせるし、前職も現職もお客さんに酒を出したり話をしたりしている。知らない人と会話することも、そしてある程度の好感を得ることも、俺にはそこまで難しいことじゃない。
 そんな状況で、響に言われる「大丈夫か」はいろいろな意味で効く。

「大丈夫って?」
「人が、多いから」
「そんなに変かね」
「うん」
「うんって」
「ゆらがこのあと来るから、平気だと、思う」
「あー、じゃ、お言葉に甘えるか」
 人が多い分だけ、煙草の数が多い。響は恐らくそう言いたかったのだろう。そう。煙草の煙で喉がやられやすい。持病があるとか、何らかのポリシーがあるとか、そういうんじゃなくて普通に煙草の煙がダメだった。その点で言えば、俺は響よりも脆弱かもしれない。響は、本人は喫煙の方法すら知らないだろうが、どれだけ煙たい中でもじっと一点を見つめていることができた。
 響の言った通り、すぐにゆらちゃんは俺たちのところにやってきて、俺の顔をみて「いや出ろ」とだけ言った。そんなにヤバそうな顔してる? 尋ねたところで適当言われるだけだから訊かなかったけど。

 ぎ、と少し錆びた音を立てる鉄のドアを開く。湿気た空気が抜けていく。
 梅雨の夜に相応しく、小雨が降っていて、六月末にしてはかなり気温が低かった。裏口。非常階段の下にあたる場所で、階段のおかげで雨が降りこまないようになっている。通常は喫煙スペースになっている場所だ。
 今は、ここがこの世で一番静かだった。人々はステージから降り、互いに優しく声を与えあっている。この場所は今、誰にも必要とされていない。誰かを避けてひとつ呼吸をしたいなら、そこが適任だと思った。概ね当たりだ。
 背後で扉が閉まり、歓談の音が遮断される。ライブハウスなだけあって、防音性能はかなり高い。切り離された感覚に、浅くなっていた呼吸を整え、深く息を吸った。

 歌。

 歌だ。洗練された音だった。よく通る声、小さく鳴るギター。おそらくアコースティックギターだ。張るような声ではなく、しかし切なくも寂しくもない、不思議ほど、ただただ降ってくるような歌声。雨音によく似ていた。
 俺は無意識にその音の位置を追う。上。非常階段の上の方だ。少し雨に濡れることになるが、構わず非常階段の昇り口に回り込んだ。階段の手すりには厳重な様子もなく簡易に立入禁止の旨が書かれていたが、当然無視した。
 非常階段は、申し訳程度の踊り場で折り返し、二階に繋がっている。最上段のあたりには小さな屋根がついていて、雨が降りこまないようになっていたはずだ。古いコンクリートはじっとりと雨を吸って重たく、夜の僅かな明かりが反射する。足音を立てないように、その声のひとつも聞き逃さないように、ゆっくりと階段をのぼった。急ぐような足取りではなく、そっと噛みしめるようにのぼった。踊り場から見上げる。
 それは誰もいないステージだった。雨に向けてですらない歌だった。
 一人の観客もいない歌が、夜に吸われていく。誰にも必要とされない場所で、彼女は楽しそうに歌っていた。俺がその時、正しく呼吸をしていたかは思い出せない。瞬きはしていなかっただろうと思う。表通りの切れかけの電灯がちらつき、彼女を背後から照らす。ストロボのように一枚一枚を焼き付けていく。宝物と呼ぶにはあまりにも美しくて、代名詞で呼ぼうにも質素で、才能と呼ぶには酷く当然で、だけど、海と雨のようにきらめいていた。

「あ、」

 ぴた、と彼女の手が止まって俺を捉えた。ばち、と変な音を立てて蛍光灯が消える。まるでステージの照明演出のようだった。そんなにでき過ぎたことがこの世にあるなら、もっと世界は平和でもいいだろう。突然の暗転や明転を思わせる彼女の静止に、我に返り、突然自分の心臓の音が聞こえるようになった。

「天野さんだ」
「よく見えるね、暗くない?」
「ばれちゃった。立ち入り禁止なのに、ごめんなさい」
「俺、スタッフでもないし。いいよ」
 むしろ俺も同罪だし。そう言うと、ちょっと間を置いて「そっかあ」と安心したようにギターを撫でるように鳴らした。単純なコードのたった一撫でがきらめいて聴こえる。ジジッとまた蛍光灯が鳴き、持ち直したように光りだす。闇に溶けていた彼女の輪郭がパチンと浮かび上がった。
「いい曲だった、新曲?」
「うーん、そうかも。わかんないですけど、多分」
 今、新曲にしよって思いました。彼女は言いながら、座る位置をちょっとだけ横にずらす。どうぞ、というような態度に俺は「座っていい?」と念のため訊く。こくんと頷く彼女は少女めいていて「濡れてないですよ」「ありがとう」幼くすら見えた。その姿に、初めて逢った日を想起していた。

「もう少し歌っていいですか」
「聴いていていいなら」

 もちろん! と、嬉しそうに、本当に嬉しそうに彼女は答えて、小さく息を吸った。俺と同じ酸素を使っているなんて思えないような、心をさらっていくような歌声が響く。もう、手遅れだった。俺は絶対に、君と君の音楽を離したくなくなってしまったのだ。

written by Togi