花菖蒲の独白

 昨日、彼女は早退した。昼休みに入ってすぐ、図書室で借りた本を返すと言って、教室を出て――チャイムが鳴っても戻らなかった。騒々しくサイレンを光らせたパトカーが数台校門の前に止まって、教室は不穏にざわめいていた。
 副担任の女性教師が血相悪く教室に飛び込んできて、担任が教壇に立つはずだった五時間目は自習になることを告げ、彼女の鞄を持ってきてほしい、と続けて走り去っていた。突然不在となった担任教師とパトカーを結び付けて落ち着かないクラスメイトをよそに、祈幸が通学鞄を、俺と水屑が部室に置いてあると聞いてたボストンバッグを取りに行って、指定がなかったので校門まで持って行った。
 パトカーの前で立っていた担任は、そのときはまだ落ち着いていたと思う。俺たちに謝罪と礼を述べ、ふたつの鞄を持って、一台のパトカーの後部座席に――座っている彼女に、それを渡した。
 そのとき、彼女が俺たちのほうへ顔を向けた。彼女の白い喉が青紫に腫れあがっているのを見て、俺は声を失った。今さっきつけられたような、生々しく変色した肌がおそろしかった。水屑や祈幸の息を飲む音も聞こえる。
 冷たく張りつめた顔でパトカーを囲む警察官ごしに、俺たちは誰ひとりとして彼女にかける言葉を持たなかった。
 彼女が唇をゆがめて、本当に小さく微笑んで、手を振った。

 その後、誰も彼女と連絡がつかなかった。
 心配になって担任を囲む俺たちに、彼女がいなくなったことを話す彼の声は酷く掠れていて、目の下も不健康に暗かった。
 帰宅して、彼女のことを考えながら、自宅のジニアの花壇を見下ろす。

 ジニアの花言葉は、離れた友を想う。
 切なさの滲む声で教えてくれたあの日の彼女は、多分、俺のなにかを気遣っていた。
 彼女は一体、いくつのなにかを抱えていたのだろう。
 いつから、ああやって母親のような瞳で、他人のことを見つめているのだろう。

 

 

20210830 / 星花慰 top