「あ、ノウゼンカズラ」
「なんだそれ」
「えっと、ほら。あそこにたれさがってる橙色のお花。葉っぱと一緒に塀からのびてるの、みえる?」
「……あぁ、あれか」
瞳お兄ちゃんはわたしの手を握ったまま、淡々とうなずく。わたしは住宅街のあちこちにある花をひとつひとつ確認しながら、自分でもあきれるほど機嫌よく歩いていた。お兄ちゃんと過ごす休みの日はそうそうなくて、それで、はしゃいでいたのだ。
五月連休の最終日。相変わらず日中は眠りこけている要さんを置いて家をでてから、なんとなくいつもの駅前に向かった。普段三人と会えるのは平日の午後で、休日は会えない。祐樹お兄ちゃんは家におとうさんがいるし、楓お兄ちゃんは時折話を聞く誰かのことがあるし、瞳お兄ちゃんは勉強のために缶詰をしていることが多い。らしい。わたしも休みの日は一日中本屋にいるか図書館にいるか花屋にいるか、飽きない過ごしかたを知っているので気に留めたことはなかった。会えないとわかっているのだから、わざわざ駅前に行くこともない。悪目立ちをしにいく趣味はないのだし。
だから、ほんとうに。気まぐれだった。
連休もあって駅前にはひとが多く、みんなちょっと浮わついた、どこか名残惜しいような顔で歩いていく。楽しそうな他人の顔をみるのはすきだったので、広場のすみっこで街ゆく影をながめていた。せわしなく歩く休日の装いをした老若男女は、大抵わたしを気にも留めない。それも気楽で。ほんのすこしいつもとちがう風に、気がゆるんでいたのかもしれない。
――ふいに、クレマチスの匂いがした。
鼻のてっぺんをひっぱられるようにあたりをみわたして、あっ、とつぶやく。制服姿でない、紺色のシャツに薄灰のズボンというシンプルな私服を着た瞳お兄ちゃんが視界に入った。とっさに走り寄って「お兄ちゃん」と呼びかけると、瞳お兄ちゃんはとつぜん視界にあらわれたわたしに目を丸くして、「あぁ、葵」とずいぶんあらたまった調子でわたしを呼んだ。持っていた参考書らしきものを閉じて、シンプルなトートバッグにしまいこむ。
わたしはお兄ちゃんをみあげながら、すこし走ったせいでどきどきする胸をおさえた。
にぎった拳で、胸をぎゅう、と押しつぶす。
「……瞳お兄ちゃん、あの、学校だった?」
「んなわけあるか」
「そ、そうだよね。ごめん。じゃあ、塾とか?」
「合ってるけど、合ってもない。自習室使おうかと思ってたけど、家がめんどかっただけで行きたかったわけでもねえから」
「そっか。そうなんだ……」
「お前は? 今日も父親の迎えまでふらついてんのかよ、……もしかして、休みの間ずっと?」
瞳お兄ちゃんは言葉の途中からなにかに気づいたように、端正な眉をひそめた。わたしは首をかしげて「うん……?」と肯定しながら、心配されているのかもしれない、と思いあたった。わたし自身はなれっこでも、お兄ちゃんたちにはいびつにみえることがある。逆だってある。瞳お兄ちゃんは細いベルトの腕時計をさっと確認してから、わたしの顔をみおろして、そっと嘆息をついた。
目をひく整った顔立ちはひとの流れがはやい休日と言えども健在で、街を歩くひとがちらりちらりと瞳お兄ちゃんを振り返っては、あからさまにみとれた表情で過ぎ去っていく。並んでいるのが冴えたところのない凡庸な容貌の、それでいて痣だけはやたらとこさえているこどもなのもあって、余計にお兄ちゃんの姿はめだつのだろう。みつめられているのはわたしではないし、居心地がわるいとしたらお兄ちゃんのほうだ。
わたしたちに目もくれず早足で通りすぎるおじいちゃんが抱えていたまっしろな花束を、自然と目で追う。初夏と呼ぶのにふさわしい頃合いで、さわやかな白花の種類も多くなった。これから六月くらいまで、時期もあって店先の白花は増えるばかりだ。
「暇してた?」
瞳お兄ちゃんはかがんで、わたしに目線をあわせてくれる。わたしはどちらともつかぬ微妙な角度に首をかしげて笑った。
「お兄ちゃんと一緒にいるよりは、なんでも退屈」
「そうかよ」
「でも、お兄ちゃんは暇じゃないでしょ?」
「俺はいいんだよ。勉強なんていつでも出来る。親があれこれ言ってくるだけで、俺自身は困ったことなんてない」
たいへんにばかの要さんが聞いたらうっかり顔をしかめそうなくらい、瞳お兄ちゃんは優秀だった。優秀さを維持するために並々ならぬ努力を支払える優等生でもあるのだけど、それが苦痛にならないのだ。
わたしは瞳お兄ちゃんの私服がものめずらしく、まじまじとみつめていた。顔はさすがにだいぶみなれたもので、花びらのように通った目鼻立ちには興奮より安堵をおぼえる。度をこえたうつくしさを持っても、ひととして正しい。それはきっと、平凡な人々が思うよりもむずかしいのだ。ひとつが人並みをはずれていたら、となりあう花びらがつぎつぎと朽ちていくように、共倒れておかしくなるほうがたやすい。そういうひとたちをよく知っている。
わたしはいつも会うときとなんら変わらず、紺色のワンピースに白いリボンを結わえていた。リボンもワンピースも、出逢ってから一度も欠かしたことがない。つまりは一度も、めずらしさを帯びたことがない。包帯やガーゼの位置だけがちがう。おもしろみのないこどもだ。
「ん」と瞳お兄ちゃんが差しだした手をとり、ゆったりとしたちからで引っ張られるまま、かわりばえはなくとも、ながい休みに浮わついた街を歩きだす。わたしの長々とのばした黒髪が風に揺れて、白いリボンとからまる。
瞳お兄ちゃんがだまって、髪とリボンをほどいてくれる。
やさしい手つきだった。
兄妹にみえていればいいな、と思う。
瞳お兄ちゃんがわたしを連れていったのは、定番の公園ではなく街中のファミレスだった。前にも一回、お兄ちゃんたちと来たことがある。わたしは三人といるときなら多少の食事をとることにおびえなくなっていて、店の看板をみたときも「フォカッチャがおいしかったとこだ……」とまぬけにつぶやいていた。瞳お兄ちゃんはなぜか笑いをこらえていた。
この日のわたしは目元に特大の青たんをこさえていたけれど、直前にドラッグストアで買ったオーバーサイズの眼帯をつけられていたのもあってか、そこまで店員さんにみつめられることもなかった。わたしはこころなしうきうきと弾むような足どりで、瞳お兄ちゃんのななめうしろを進む。
案内されたのは、すみっこのこぢんまりとした二人席だった。向かいに座った瞳お兄ちゃんはドリアを、わたしはたっぷりなやんだ末にフォカッチャを頼むことにした。お兄ちゃんはドリンクバーもふたつ注文する。飲み物ならいくら飲んでもバレない、と、そろそろ三人は要さんの頭のわるさに気づきはじめていた。
「お前、今日飯は」
「朝に睦月がくれた。お茶とくだもの」
「……坊さん?」
飲み物を注いでいるあいまにすばやく届いたドリアをスプーンでつつきながら、瞳お兄ちゃんは片頬をゆがめる。皮肉っぽく笑っていても、まぁ美人なのだよなあ。こんなにきれいだと、いっそ小説の題材にはならないのかもしれないと文月さんの作品を思い浮かべる。
「休みの日って、お兄ちゃんは勉強してるの?」
「……まぁ」
苦々しい、自嘲するような声。あんまり楽しい話題じゃないのだろうな、とわたしはうなずくだけにとどめる。ファミレスの中はざわざわとさわがしく、わたしたちの無言は浮きたつ空気にすぐまぎれた。
「お前は? 図書館とか?」
すこしして、瞳お兄ちゃんがぽつりとたずねる。
「うん。図書館とか、本屋さんとか、お花屋さんとか。近所のお花みてまわったりとか」
「へぇ、近所の花」
「こないだまでは、木蓮と雪柳が庭で咲いてたんだけどね。うちの庭にあるお花も、そんなに多くないから。桜は……お兄ちゃんたちとみたのが一番すきだけど。いまはポピーとかライラックが藤と同じくらい旬で、三軒離れたおうちの庭にたくさん咲いてるのを、よくみにいくんだ。もうすこししたら、立葵とか梔子が庭木とか駐車場のすみに、まっしろい花をぽんぽんってつけるんだよ。はやい子はもう咲いてるくらいかも」
しゃべることにひとしきり熱中してから、はた、と頭がさめて恥ずかしくなる。花のこととは言え、こんな風にべらべらと、相手のことを考えずに話し続けるなんてよくなかった。
目の前にいるちいさなこどもの後悔と自己嫌悪などまるで気にしていない様子の瞳お兄ちゃんは、ドリアを口に運びながら「それで?」と続きをうながす。わたしは届いたフォカッチャをひとくちかじって、「えっと……」それまでの饒舌さが嘘のようにどもりだす。
「梅雨が終わると、大抵の立葵はかたむいちゃうの」
「お前が好きな花?」
「うん。同じなまえだし。背が高くてのびのびしてるし。どこにでもいてくれるし……」
「……なんか、お前って」
「うん?」
「花のこと、友達みたいに話すよな」
「そう、かな?」
「いやな意味じゃない」瞳お兄ちゃんは言葉をさがしながら、ひとつため息をつく。「そう聞こえたなら悪かったよ」
わたしはぶんぶんと首を振って、「ぜんぜん」と一言つぶやき、またフォカッチャをかじる。瞳お兄ちゃんの視線がやわらいだようにみえた。
またひとくち、かじる。
店内をめまぐるしくまわっていく店員さんも、自分の話に精一杯の客も、誰もわたしたちのことなど気にしない。瞳お兄ちゃんの顔に目を留めるひともいない。わたしの痣を興味本位に盗みみるひともいない。
わたしは目の前のお兄ちゃんをじっとみつめる。
「なんだよ」とたおやかな声に、そっと微笑む。
「なんでもない」けど、うれしかった。
ここには誰も入ってこないから。
ファミレスを出て、また瞳お兄ちゃんと手をつなぐ。ふたりでいるのに本屋や図書館に行きたいとも思わず、かといって行くあてなどとんとなかったので、いつもの住宅街に入ってわたしがすきな花たちをみせて歩いた。
春から夏になる準備をしているようないまの時期、花はそこかしこにあふれている。こじゃれたデザインの家の庭で花をつけているハナミズキを指さすと、瞳お兄ちゃんは「へぇ」とつぶやく。公園までの道のりをのんびり歩きながら、わたしは宝さがしのようにいくつもの花を呼び、瞳お兄ちゃんはそれを聞いてくれた。
「あれが藤」
「藤はわかる。注意して見たことはねえけど。結構咲いてるんだな」
「これはポピー」
「初めて聞い……たわけじゃないけど、意識して見たことねえな。ふうん」
「カンパニュラ」
「ほー……?」
「あ、鈴蘭」
「あぁ、さすがにわかる」
モッコウバラがぽわぽわ咲いている庭も、サツキがわあっと花をつけている植えこみも、みているだけで華やかな気分になる。わたしは昔からたいそう花と星がすきで、読んだ本のこと以外は花と星の知識ばかりあった。通りすぎる家のプランターでニゲラが咲いている。静かに微笑む少年のような、青い花弁。
瞳お兄ちゃんは花の名前をあげながら歩くわたしを時折みおろしながら、しっかり前を向いていた。整った横顔をみあげると、とつぜんわたしの胸は苦しくなる。つい先日、ずっと一緒にいたい、と叫ぶように放った言葉が脳裏をよぎる。
三人の、お兄ちゃん。高校生の少年。
縁もゆかりもない他人。
ただわたしを、みつけてくれただけの。
あぁ、そういえばきょうはわたしが瞳お兄ちゃんをみつけて、飛びこんだのだった。出逢ってからいままでで、わたしから彼らに声をかけたのははじめてのことだった。三人の他人。みつけてくれるほがらかな声と笑顔。みつけたときの、ぱっと花咲くようなうれしさ。
思いだすと心臓が落ちつかなくて、わたしはお兄ちゃんの横顔から目をそらす。
「なに?」
わたしがひとりでに視線をあわせてはずすので、お兄ちゃんが怪訝そうに問う。
「なんでも、ない」
いつも通りの声を意識して、答えた。
顔をあげると、視界にぶわっと橙色が飛びこんでくる。勢いよくのびたつるに、ラッパ型のあざやかな花をたくさん備えた植物。赤みがかったその色が、夏の訪れを感じさせる。
「……ノウゼンカズラ」
ぽつりと、花の名をつぶやく。芋づる式にお兄ちゃんたちのことを思いだして、また心臓がぎゅっとさわがしくなる。はじめて逢った日、声をかけてきた楓お兄ちゃんの髪の色を、この花のようだと思った。楓お兄ちゃん自身はリンドウの匂いがするけれど。わたしに向ける笑顔や、祐樹お兄ちゃんをじっとみつめる瞳は確かに、この花にも似ている気がする。
「なんだそれ」
「えっと、ほら。あそこにたれさがってる橙色のお花。葉っぱと一緒に塀からのびてるの、みえる?」
「……あぁ、あれか」
瞳お兄ちゃんはわたしの手を握ったまま、淡々とうなずく。
「楓お兄ちゃんの、髪の色。似てないかな?」
「葛?」
「うん。はじめて逢ったとき、そう思ったの」
「どうだかな」
息をつきながらわたしの顔をみおろした瞳お兄ちゃんが、奇妙に顔をゆがめる。きりりとした顔立ちで気弱に笑っている祐樹お兄ちゃんとちがって、瞳お兄ちゃんは常にどこか険しい表情を浮かべていた。目元がするどく整っているせいもあるし、あまり笑わないのもあるし、瞳お兄ちゃん自身がそんなにごきげんなひとじゃないのだ。
でもこのときは、わたしが使えるどんな言葉でも、そのひきつったような、不愉快でもなく愉快でもない表情を説明出来なかった。
普段からみるものとよく、似ているけど。すこしだけなにかをうかがうような気配。
じっと目線をあわせながら、お兄ちゃんが口を開く。
「お前、あいつのこと、好きなの」
「えっ」
わたしは急激にうろたえた。油断していた胸を撃ちぬかれたように、動けなくなる。きれいな目がわたしを透かしてながめるように細められる。「わたしは」瞳お兄ちゃんがどんなつもりでどんな意味でそうたずねているのか、「わたしは……」十歳のわたしにはわかるはずもなくて。
「わたしは、さんにんとも、すき……」
うつむきがちにぼそぼそと答える。喉がつまって、なんだかわけもなく苦しかった。瞳お兄ちゃんは「ふうん」と短く相槌をうつと、またわたしの手をだまって引く。あぁ、なんでもなかったのかもしれない。わたしは安心して、隣をとことこと歩きだす。
通りすぎていく家の柵に、クレマチスがからまっている。
まっしろい、大輪の花。気高いうつくしさ。
すきなひとの匂い。
すこしだけ、目を伏せる。瞳お兄ちゃんはなにも言わない。
誰もいない住宅街は、びっくりするほど見晴らしがいい。澄んだ空に似合う初夏の風が吹くと、あちこちで花が揺れる。花弁同士がこすれる音さえも、よく聞こえそうだった。
髪に結わえたリボンが、ふわり、と風にたなびく。
わたしは瞳お兄ちゃんとつないだ手に、ぎゅうっと力をこめる。
「はは。お前、それ本気の力?」
瞳お兄ちゃんがわたしをみて、冗談でも言うみたいに、楽しそうに笑った。